平成20年10月1日       第122号
  

 我孫子の文化

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プロジェクト説明会&講演会開催
 
今年新たにスタートするプロジェクトの説明会が、
九月七日、13時からけやきプラザ9階ホールで開かれた。当日は42名が出席した。我孫子の文化を守る会の行事としては初めての試みであったが、約百二十名の会員のうち、三分の一が出席したことになる。
 
第一部 三谷会長の講演(講演の要旨を一部披露)
1.「平将門は今も生きている」
将門神社は将門の三女如蔵尼が父の霊を祀ったのがはじまりとされる(創建は不明)が市民の「守り神」としての他に、その死後に怨霊となって関係者の死や天変地異を引き起こすことから「たたり神」として祀られている。
もともと平将門の乱は朝廷に背いて起こした反乱だが、関東一円では、将門は武芸に優れているばかりでなく、世に受け入れられない者の代弁に努めたという評価があり、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間崇敬の対象になっている。
(実物をかざしながら)ここに柴崎天満宮(大井家)1050年祭の手拭がある。この天満宮は将門戦死(940年)の翌年に建立されたもので、それから1050年後の祭に記念として配られたものである。
茨城県相馬市と千葉県流山市とは奥州相馬氏(相馬氏の先祖は平将門)と民謡「相馬流れ山」の縁で姉妹都市になった。
我孫子の高野山(将門の乱を平定した藤原秀郷建立の香取神社)と茨城県坂東市岩井(将門神社)の間では1000年の間、嫁どり・婿どりはしていない。
2.「我孫子の地名について」
我孫子には珍しい呼び方をする地名が多い。そのうちのいくつかを紹介する。
我孫子、アビコ・・・@大阪のアビコ氏の関東の領地だったのでその姓が地名になったA「網引こ」「網曳(あびき)」からアビコに転化B昔の製鉄法ではフイゴ(鞴)が使用されたが、足で踏むため足がビッコになった→足ビッコ→アビコなどの説がある。
根戸・・・北斗神社(北星神社)北は子(ね)、北斗→子斗→根戸に転化
久寺家・・・久寺氏→久寺家
岡発戸・下ヶ戸・・・地形から地名がついた例。岡発戸の発戸→ほと(女陰)に似た地形→岡は高い所。下ヶ戸は低い場所。
天王台・・・柴崎村小字天王谷、天王裏(牛頭(ごず)天王を祀る八坂神社がある。→天王様)
高野山・・・鴻ノ山とも書く。一般に沼の周辺に鴻巣の小字名が多い。高野山香取神社にコウノトリが巣づくりしたのではないか。
中峠・・・峠(とうげ)にはビョウの読み方はない。中ビョウに中峠と当て字したのだろう(河村出羽守)。
 
第二部 プロジェクト説明会
会場の正面に副会長5人が並び、各副会長からプロジェクトの説明を逐次行った。説明の途中でも出席者の中から質問や建設的な提案が出るなど、活発なうちに終了した。
 
第三部 立食パーティ
引き続いて行われたパーティには34名が参加した。
会場の一部に設置されたテーブルに既に飲み物や食事が用意され、参加者はカップや皿を手に、交歓した。このような催しは初めてのことということもあって、お互い初対面の人も多く、自己紹介をしながら、自分がこれから参加しようとするプロジェクトを披露し合った。またある会員は特定のプロジェクトについて責任者(とりまとめ役)からより詳しい説明を求めていた。
 
 
(現在までの各プロジェクトの参加状況)
傍線は当面のとりまとめ役(仮決定)
 
@民話のまとめ(越岡禮子、飯高美和子)
A「会報」のまとめ(宮本瑛夫

B手賀沼の自然と親しむ会(田口ふみ、飯高美和子、栗田律恵、堺隆久、黒澤里子)

C小中学生に対する教育・啓発活動(村上智雅子、伊藤一男、楫西雄介)

D三谷会長を囲む会(三谷和夫、古賀清昭、田口仁、若林斉、田嵜隆三、片庭ちず子、斉藤清一、江角圀子、坂部蓉子、峯岸志津江、宮腰多加雄、中根秀樹、今村昌人)

E百人一首を楽しむ会(美崎大洋、山口重介、飯高美和子、田口ふみ、黒澤里子)
F岡田正二の絵から文化を考える
G我孫子のお宝探し(藤井吉弥、美崎大洋)

H千葉の建築めぐり(藤井吉弥、飯高美和子、関谷俊江、若月愼爾、中野いみ子)
I異文化を学ぶ会(伊藤一男、堺隆久、藤井吉弥)

J布佐地区の歴史・文化研究(戸田七支、財前重信、折原淳二、中野いみ子)

K相島井上家住宅サポート隊(藤井吉弥、戸田七支、湯本信康、菅野哲哉)
L短歌を楽しむ会(三谷和夫、宮本瑛夫、須田博)
M俳句を楽しむ会(田嵜隆三

N我孫子の歴史を1から学ぶ(三谷和夫、藤井吉弥、財前重信、古賀清昭、馬渕善弘、中根秀樹、
谷辰夫、中川満、美崎大洋
Oエッセーを楽しむ会(寺田賢一
P我孫子の映像を残す会(中根秀樹、吉澤淳一)
 
今後の進め方について
 各プロジェクトは当面は原則、とりまとめ役(リーダー)が中心になって自主的に進めることとし、走りながら考え、状況の変化に応じて適宜修正していくこととします。プロジェクトの開催日、場所などについては今後とりまとめ役からメンバーに連絡がいきます。
1プロジェクト参加申し込み窓口について
現在までの参加者は前ページの通りですが、今後も引き続き参加の申し込みを受け付けます。
申し込みは藤井(総務)まで。
電話 (七一八五)一九九六
2近々スタートが予定されているプロジェクト
    D三谷会長を囲む会
    日時 12月6日(土) 14時〜16時
    場所 東高野山自治会館(天王台駅南口より
500m南進、小暮橋を渡り右階段を下りて西進200m
    内容 @「我孫子の文化を守る会」創立より
今日までA平将門などについて
    問合せ先 三谷(七一八三)一〇七七
    I異文化を学ぶ会
    日時 10月中に初会合を予定
    場所  未定
    問合せ先 伊藤(七一八三)四二〇一
J布佐地区の歴史・文化研究
日時 10月10日(金)10時〜
 場所 布佐平和台近隣センター
内容 布佐下稲荷の3枚の絵馬の調査
    問合せ先 戸田(七一四九)一六四八
   K相島井上家住宅サポート隊 
    日時 10月中に初会合を予定
    場所  未定
問合せ先 藤井(七一八五)一九九六
    N我孫子の歴史を1から学ぶ
    日時 11月中に初会合を予定
    場所  未定
    問合せ先 美崎(七一八二)〇八六一

   (随筆)
水辺の桜」(その3
晩夏の桜       若松  村上 智雅子
地震と猛暑と大雨に見舞われた今年の夏、甲子園では高校野球、北京ではオリンピックが開催され、日本列島が観戦と応援の熱気で満たされた。夢中になって時の歯車に己が行いを噛み合わせ走り続けたような、あわただしくも充実した夏でもあった。
九月の初め、久しぶりに遊歩道を歩いてみた。いつも窓越しに眺めていてはわからない桜の実情を見て愕然とする。あの春のたおやかな桜の姿からは程遠く、枯枝も目立ち、葉は虫食いによるのか、レース状に穴があいている。林業科学技術振興所編の『桜をたのしむ』で調べてみると、穿孔(せんこう)褐斑病らしい。
桜は、他の樹木より病気にかかりやすいといわれる。特に遊歩道の桜のように街路樹として植えられる桜は、花が美しい樹形のよいものを目的として作り出された園芸種で、実生(みしょう)の野生種に較べると病気や災害に弱いようだ。その代表格が、現在どこにでも(この遊歩道にも)植えられているソメイヨシノである。バラが手がかかる存在であるように、桜もその美しさ故に、病気、虫害、水害に悩まされる。それなのに年一・二回の消毒で済まされる現状では、なかなか桜も長生きできないのである。
桜の病気は、四十七種類もあるといわれている。まずは、天狗巣病。遊歩道の桜も十年程前、まずは、天狗巣病になったことがあった。はじめは桜のてっぺんに鳥が巣を作ったのかと思い、よく見ると枝の一部がこぶ状になり、そこから帚(ほうき)を逆さにしたように小枝が生えている。後から知ったことだが、多くは木の上方に出来るので、空を自由に飛ぶ天狗の休み場所・腰掛けのように見えるところからこの名がつけられたとのことである。この天狗巣病は、幸か不幸か三・四年前の大きな台風の折、枝ごと吹き飛ばされてしまって、ここのところ目にしていない。その他癌種苗、ならたけ病などもまま見受けられる。
次に、虫害も結構ある。まず、春にアメリカシロヒトリが飛来する。これについては、年中行事で近隣の人が見つけ電話すると消毒してくれる。又秋には二・三年に一回の割合で、モンクロシャチホコという黒い毛虫がもの凄い勢いで発生する。去年は発生しなかったが、今年はすでにその予感があり、別の毛虫かもしれないが、昨日車でふれあい道路を通った折、我孫子から柏に至る桜並木の中間あたりの木々が大部食われて丸坊主になっていた。市役所に電話しなければと思っていたら、今朝消毒するとのお知らせがポストに入っていたので、一安心。そういえば、四・五年前我家の前の桜が丸坊主になったことがある。その際不思議な現象を目にした。十一月の小春日和が続いた頃、枝先にちらほら桜が咲き始めたのである。生命の逞しさに驚いたが、それは葉が早く無くなったためその下にあった花芽が頭を出し、暖かな日が続くと春と間違えて咲くのだという。しかし春になるとやはり花つきが悪いので、虫害は防がないとまづいのである。
それに加えて、ここの遊歩道の桜には水害がある。年に三・四回は、大雨・台風によって冠水する。今年は八月三十日ゲリラ大雨の一端で、道路は三十五センチ程冠水した。一昨年の六月十日には四十五センチの冠水があり、我家も玄関スレスレまで水が押し寄せてきた。桜はそれプラス何センチか深く冠水するので、気の毒である。本来は水はけのよい砂質土壌を好む桜は、水辺に適しているとはいえない。
しかし、それでも私たち日本人は水辺の桜を望む。少なくとも街中よりは排気ガスや踏害も少なく、水辺に映える桜は麗しい。古くから隅田川の桜、千鳥ヶ淵の桜、琵琶湖の桜などと枚挙に暇ない。水辺の桜は水害、虫害病気に耐えながらも、よくぞ生きていると感心するばかりである。植物であるが故に苦言も吐かず逃げることもせず、そこに根を下ろして、一年に一度精一杯その命を燃やして花を開く。その一時期だけ愛で慈しみながら、あとの十一ヶ月はそれ程目もくれない人間の身勝手さを思う。
それでも花は咲き続ける。咲いては散り、散っては又長い月日を重ねて準備して咲く。その咲きっぷりも散り方も見事なのは、桜は〈「思いもよらない程/遠い時間まで/根が届いているからに違いない〉(「さくら」笠間由紀子)                   (つづく)
                           
第90回史跡文学散歩(報告)
相島井上邸と周辺史跡散歩に参加して
高野山  星 崇恵
 
近隣を歩いている俳句の仲間を、相島井上邸に案内することになった。丁度渡りに船で相島井上邸史跡散歩の記事をみつけ早速申し込んだ。六月八日晴れ。わくわくして九時十五分布佐駅集合。まず図書館へ向かい、昔あった老松、千崎孤松の説明がある。それから図書館内の布佐文庫と、岡田家より寄付された水彩画を特別に見せて頂く。水彩画は特に退色するので苦慮するそうだ。保存の大変さを思う。また歩いて程なく住宅地に入ると別世界で瓦屋根に手入れの行き届いた庭。空木、合歓の花、あじさい、木斛の花がのぞいている。本当にゆったりした気分になれる道である。稲荷神社に寄り、次は水原秋桜子来訪の秋田家。初めての公開とのことで秋桜子と一緒の写真や色紙を見せて頂く。庭に咲きみだれるバラ、木をふんだんに使った座敷、ご主人が庭、奥様が家の中の清掃をしておられるとのこと。本当に気持の良い御宅だった。
   餅つきてもてなされける青田風  秋桜子
浅間神社に行き、新嘗祭献上米記念碑まで歩き、汗をかいて沼の方から井上家に入る。すぐお茶の接待を受け、庭で夫人の熱のこもった説明を聴く。擦れるのでめったに見られない襖絵、私にとっては初めての貝合せに見入ったり、不思議に
落ち着く月光倉。あちこちに江戸がたくさん残っていたり、当時の最先端の新しい材料を使った建築等面白く充実した時間だった。また文化を守ることの大切さと難しさを痛く感じた一日であった。
帰りの布佐駅前での天丼(五百円也)のおいしかったこと!楽しい一日だった。感謝の気持で一杯になり帰宅した。
藤莢のとろりんとろり青田風 たかゑ
 
 
 
 
(特別寄稿)倭人伝と卑弥呼の冢
歴史作家  丘 英夫
魏志倭人伝では、三世紀前半における倭人の国々の状況について詳しく述べられている。しかし、その日訳は、訳者によって様々であり、中には我田引水的解釈も見られるので、読者は五里霧中に陥ってしまう。
 倭人の国々の中に邪馬台国があり、邪馬台国の女王は卑弥呼であった。倭人伝では、卑弥呼の冢(チョウ)について「卑弥呼以死、大作冢、径百余歩」と描写している。日本の歴史家の多くは「卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。径百余歩」と読んでいる。
中には、「卑弥呼すでに死す」と読んでいる人もいる。いずれにせよ、これでは、読者は卑弥呼の冢がどの程度の規模であったのか見当がつかない。
 第一文の以は、第一文と第二文を繋ぐ接続詞で、第一文の動作が終了し、第二文の動作へ移行することを示している。第二文の大作(ダイサク)は、中華古漢語大辞典によると、「大規模な土木工事を興す」の意味であり、冢(チョウ)は「高くて大きい墳丘墓」となっている。第三文の径は「円の直径」、余は「プラスアルファ」の意味である。歩は「ふたまたぎ」の意であり、魏の歩は一四五センチであった。
 したがって、この十二文字の意味は、「卑弥呼が死ぬと、大規模な墳丘墓を築造した。その直径は一四五
メートルプラスアルファである」となる。ブルドーザーなどがなかった当時、これほどの規模の墳丘墓を築造する労苦はいかばかりであったかと推察する。
 ところで、この百余歩が我田引水的に三〇〜四〇
メートルであったと主張する歴史家がいる。そうすると、一歩、すなわちふたまたぎが三〇〜四〇センチ弱となる。それでは、卑弥呼が度々遣使した魏国の人々はどのようにして歩いていたというのだろうか。
筆者紹介
  昭和三二年、大阪外国語大学中国語学科卒。
音韻学専攻。
著書に『義経はジンギスカンになった』(アーバン
プロ出版センター)、随筆に『義経北行』、
『徳川光圀』(歴史研究誌)、『蘇州紀行』、
『北京紀行』(JMCジャーナル)など。我孫子市
東我孫子在住。
 
 
 
 
手賀沼アララギ短歌会
 
(平成二十年十月一日三十一日文学掲示板展示)
                        小口 珠園 書                                     
鳥が落しし種の芽生えか欅あり
烏爪を自在に絡ませながら
                     柏市 尾上 渓子
 ユリカモメの赤き嘴迫りきて
    幼はをののきパンを手放す
                     取手市 小口 勝次
 葦の根を水音たてて喰む鴨を
    しばし見てゐつ沼辺の道に
                     松戸市 細田 雄子
 父母の墓へつらなる道にして
    吾亦紅風に揺らぎてをりぬ
                    取手市 関澤喜久子
 蝋梅の花を浮かべしグラス合はす
    今日も無事過ぐ夫とのくらし
                    柏市 坂巻志津江
 足裏に土の温もり感じつつ
    土手の道行く小春日の午後
                   我孫子市 須田 博
 
湖畔六句 第二回杉村楚人冠展より
                 
浮寝鳥沼向ふ低い丘うねり        滝井 孝作
                       
沼の上に藻の花白くじっとして      岡野 知十
 
竹立てゝ?()を沈めたり冬日影      山口 青邨
 
鳰(にお)あそぶ舟路はありぬ萱の中       加藤 秋邨
 
遠く漕ぐ沼渡船あり五月雨        高浜 虚子
 
苗代や沼の真菰と風かよふ       水原秋桜子
          
第92回史跡文学散歩
流山に一茶、新撰組ゆかりの地を訪ねる
 前回の「我孫子に残る一茶ゆかりの地」に続いて流山を訪ねます。一茶の支援者である秋元双樹がいた処です。秋元家は戦前まで味醂の醸造で知られる家でした。一茶は双樹を肉親のように慕っていたといわれ、双樹が逝ったあとの嘆きは大変なものでした。その秋元双樹記念館は豪商の佇まいを今に残しています。近くの赤城神社に二人の句碑があります。
流山は新撰組の近藤勇が捕まった地として有名ですが明治初期県庁が置かれたこともある、水運で栄えていた街でした。
現在も其処此処に古い家並みが残る流山を散歩します。東葛一立派なミニ富士がある浅間神社にも案内致しましょう。
日時 11月16日(日)千代田線「新松戸駅」改札口
     9時集合(小雨決行) 13時「流山駅」解散
参加費  会員 無料、 非会員 五〇〇円
コース 秋元双樹記念館|赤城神社|光明寺|新撰組近藤勇陣屋跡|閻魔堂|常与寺|浅間神社|加村河岸|流山市立博物館(県庁跡)
 申し込み 〇四(七一八八)三四八八 財前まで
 
今後の行事予定
□「放談くらぶ」
日時12月7日(日) 午後2時〜4時
場所  アビスタ第5学習室
講師  丘 英夫氏(歴史作家)
演題  「倭人伝と卑弥呼」
参加費 会員無料 非会員三〇〇円

□井上家住宅登録文化財記念第2回「倉サロン
日時10月12日(日)13時〜(9月20日予定が延期)
場所 相島芸術文化村(月光倉ギャラリー)
内容 「手賀沼干拓の歴史」
定員   先着60名
参加費 一、〇〇〇円(相島おにぎり付き)
主催  相島芸術文化村
後援  我孫子の文化を守る会
申し込み 〇四(七一八九)二八六四
 なお当「倉サロン」の第一回目「蔵講座」は7月5日(土)に同場所で開かれ、多数の参加者がありました。
 講師は宮澤智士氏(長岡造形大学名誉教授)、
      日塔和彦(東京芸術大学客員教授)でした。
 
8月役員会の報告
日時・場所 9月7日(日)16時半より「けやきプラザ8階第一会議室」
議題 今後の計画・予定について
1 散歩部会
@ 第91回史跡散歩9月21日(日)
A 第92回史跡散歩11月16日(日)詳細は別掲
B 第93回史跡散歩3月
2 手賀沼部会
@ 9月12日手賀沼流域フォーラム実行委員会第3回
A 10月18日手賀沼流域フォーラムのイベント
3 研修部会
9月28日(日)14時〜 アビスタ あびこ楽校フェ
スティバルの一環として当会主催の講演会実施
4 広報部会
9月28日(日)12時半〜 けやきプラザ
市民活動ネットワーク(シニア世代歓迎のつどい)
へ参加
5 その他
今後の予定  10月20日 副会長会
11月2日 役員会 
   9月7日(日)に予定のプロジェクト説明会について具体的打ち合わせを行った。(実施状況及び結果は1面参照)

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