我孫子の文化

会報 第130号 
平成22年10月1日発行
平成23年1月3日Web掲載

プロジェクト報告会を実施

                 
9月12日(日)14時半から我孫子北近隣センター並木本館ホールで「プロジェクト報告会」が開催され、会員25名が参加した。
当日は各プロジェクトの責任者、担当者からプロジェクトの進捗が報告された後、プロジェクト「チーム相島」菅野哲哉氏から「手賀沼干拓に全力を注いだ井上二郎の偉業」というテーマで講演があった。

講演 「手賀沼干拓に全力を注いだ井上二郎の偉業」

1.相島と私

私の住む布佐平和台から眼下に広がる水田地帯を通って手賀川を折り返す道筋がほぼ私の日頃のウオーキングコースとなっています。コース途中に建つ古い屋敷は以前から気になっていましたが、やがてここは相島・井上家の邸宅であることを知りました。樹木と塀で囲まれた邸内は静まり返り風格ある数軒の建物が歴史を感じさせます。
数年前より私が関わりだした我孫子市国際野外美術展のお手伝いで、また、家内が同屋敷内の陶芸教室に通っている事もあり邸内に出入りする機会が多くなりました。邸内を散策し、敷地内で行われる様々な催しに顔を出し、同家周辺に点在する同家の墓山や水田、畑、緑地、等を折に触れ目にするうちに、同家の持つ二百八十年の長い歴史と地域との堅いつながりを感じるに至りました。
井上家は歴史的視点から、手賀沼干拓と水田開発に長年尽くし、地域の経済発展に寄与してきた文化的香りを漂わす豪農として位置づけられると思います。井上家の手賀沼干拓へのかかわりの歴史と、なかでも、宿願の干拓事業を完成に導いた第12代井上二郎についてお話しをしたいと思います。

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2.江戸から昭和初期までの手賀沼干拓の歴史

平安中期(約千年前)の古地図によれば、銚子から内陸に向かって「香取海」と呼ばれる広大な内海が広がり、その最奥部の入り江の一つに「手賀浦」がありました。その後流入する河川の堆積物で香取海が大きく後退して手賀浦は常陸川(利根川)とは細い水路で結ばれるようになります。
江戸初期、幕府の命で木下に堤防が造られ水門で仕切られた事で手賀浦は利根川から分断されて「手賀沼」となりました。手賀沼周辺の住民はわずかの耕作地がしばしば洪水と利根川からの逆流水で田畑が流出する被害に悩まされてきました。
一七二九年(享保十四年)に江戸の豪商、高田茂右衛門が私財を投じて手賀沼のほぼ中間点に南北に沼を仕切る「千間堤」を構築しました。沼の西半分を上沼、東部分を下沼と称し、比較的水深の浅い下沼の干拓を行い、二百三十町歩におよぶ耕地を生み出し、一五〇〇石の水稲収穫を可能にしました。

3.相島井上家の干拓事業進出

井上家の祖先は、江戸初期、近江から江戸に出て、銀座尾張町で「近江屋」の屋号で乾物問屋を営んでいました。江戸城中に出入りし名主にもなり商売順調の第4代佐次兵衛(徳栄)の代に、幕府の耕地開発奨励策に呼応して、手賀沼干拓に乗り出す決意を固めます。
一七三三年(享保十八年)ついに商人株五千両と江戸屋敷を手放し、手賀沼畔の相島に移り住みます。水害で決壊した千間堤の修復と水田造成に多額の資金を投入しますが繰り返される水害のため所期の成果はなかなか得られません。
徳栄没後の一七九四年(寛政六年)の検地では、沼べり全三十九新田のうち相島新田は二十七石九斗余とあり全体の約1%に相当しました。
井上家第6代定秀(ていしゅう)は教育にも熱心で寺子屋を設け多くの子弟を指導しました。干拓事業で底を突いた家計の建て直しにようやく曙光が兆し、相島再興の人と仰がれましたが一八三四年(天保五年)に69才で苦難の人生を終えました。
同家第9代主信(しゅしん)は一八四三年(天保十四年)に22才で家督をつぎ、一層干拓開田事業に邁進し、農業収入に加えて、質屋、油売り、漁労、鳥猟、など手広く経営して順調に収入をのばしました。
主信の代に稼業はさらに安定し、井上家中興の祖と仰がれています。

4.井上二郎の情熱と不屈の精神近代工法で干拓事業の完成へ

井上家第12代二郎は、藤代市の旧名主横瀬家の次男でしたが、明治三十年(一八九七年)に井上家に養子に入り、第12代当主となります。
東京帝国大学工科大学土木学科および大学院で学び、卒業後、栃木県、旭川市その他で官民の様々な土木事業に従事します。堤防、水門、橋梁、疎水、倉、などの設計や施工に従事し、中でも松戸市に現存するレンガ造りの「柳原水閘」は貴重な遺作の一つです。
昭和二年二月、53才の井上二郎はすべての勤務を辞して相島に戻り、手賀沼干拓に後半生を賭けることになります。当時の手賀沼周辺の農民は、他の土地同様、足踏水車による排水、モッコによる土運びなど全て人力に頼る小規模農業でした。相島周辺の手賀沼は水深は浅いものの、岸辺から沼の半ばまでうっそうと真菰(まこも)が茂り近寄りがたい状況でした。耕地は狭く、数年ごとの洪水禍のため、収益は細く、農村には活気が見られませんでした。
井上二郎はこうした農村の沈滞状況を払拭し、村落経済の更生を達成するため真菰生い茂る沼地の大開拓を周辺農民や地主に説明し、協同して耕地開発にあたる必要を熱く説きました。開発区域は沼東南部一帯の百二十町歩に及び、関係地主60名への懸命の説得の末ついに昭和二年十一月三日に起工式にこぎつけました。

5.工事の概要と作業の様子

干拓工事は、翌三年から本格工事にかかり、難工事を切り抜け昭和五年に一応の干拓と開田工事を終了しました。工事は、トロッコによる山土の運搬、堤防構築、排水・用水工事、橋梁工事、道路工事、水田造成工事、などで、最大時で約200名、平均で約80名が毎日各作業現場で忙しく働いていました。工事は元日を除き毎日日の出から日没まで続けられました。
「トロッコ列車が勢いよく山から下りてきて堤防の上を走り、ポンプ小屋ではモーターの音がにぎやかで、田んぼでは大勢が働いて活気があった」と当時の活気溢れる作業の光景を土地の古老は語っています。井上二郎は専ら人力頼りの従来の作業工程から、トロッコによる山土の運搬、機械力による排水と給水(取水)、効率的な配員、などに切り替えた上、土壌の検査や種子の選定にも細心の注意を払いました。二郎の導入した近代的技法と営農管理、効率的な人員配置などは功を奏し、幸い洪水被害もなく、従来の三十町歩から百五十町歩と5倍の耕地をもたらしました。関わった小作農家の収入は安定し経済的ゆとりもでてきました。
相島干拓の成功は干拓開田工事のモデルとなり、近隣農村でも協同組合を組織し、ポンプやトロッコを導入して沼地開発に乗り出す地域が増えてきました。
昭和十年四月、相島新田で栄誉ある「献穀田御田植式」が行われました。その際、二郎がこれまでの事業を振り返って述べた記録「真菰を稲に」が事業の開始から完了までの経緯を簡潔に記録しています。
井上二郎は全ての事業の完結を見ることなく昭和十六年に69歳の生涯を閉じますが、工事は続けられ、昭和二十六年、関係者一同は二郎の業績を賞賛し、威徳を偲び、井上邸に隣接して「開発済世の碑」を建立しました。

6.相島井上家の建造物群

井上家は手賀沼干拓や農業経営で培ってきた名主としての風格ある建築群にとどまらず、江戸期以来育んできた文化の香りを漂わすたたずまいを現代の我々に伝えています。
平成二十年(二〇〇八年)に、同家建造物9件が、歴史的、建築的、文化的価値が評価され「登録有形文化財」に指定されました。以下はその主なものです。


1.主屋  万延元年(一八六〇)第9代主信が建て替え。京風座敷および破風など当時の民家としては珍しい造り。
2.旧漉場 油漉し作業場。創建は一八五〇年頃。
一八九〇年頃建て替え。
3.表門  江戸末期造。袖塀付き。医薬門。
4.二番倉 嘉永四年(一八五一)第9代主信造。「江戸倉」 床下にシジミ敷設。
5.四番倉 昭和六年(一九三一)井上二郎設計。「昭和倉」 現「月光倉」

現在、「相島芸術文化村」の名で、主屋での貝合わせや「月光倉」でのコンサート、春秋のクラフトバザールその他の文化活動が活発に実施されています。
建造物の意義は単に「古い建物」ではなく、歴史的、建築学的、文化的面から見て価値を認められ、再現が出来なく、造形の規範と見なされる建造物であることにあると言えます。江戸末期から昭和初期にかけて建造または再建された相島井上家の建物群は二百八十年に及ぶ同家の歴史を積み上げてきた人々の住まいであると同時に、手賀沼干拓事業の開拓者の住居としての象徴的存在でもあります。
歴史と文化に彩られた由緒ある相島井上家の保存と活用は現代の我孫子市民に託された義務であると信じています。

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第99回史跡文学散歩(報告)
「血脇守之助ゆかりの三田・高輪周辺を歩く」

                                 日比野 理
第99回史跡文学散歩9月19日9時、我孫子駅南口に集合した23名は本日の史跡散歩目的地JR田町駅に、越岡さんの案内で向かう。
① 「田町駅壁画」(西郷南州、勝海舟会見の図)
官軍大総督府参謀・西郷南州と幕府の軍事取扱・勝海舟は薩摩藩蔵屋敷において会見。勝は戦火が招く江戸市民の災厄と諸外国の内政干渉とを絶対に避けるべしと説き、ついに江戸総攻撃は中止された。おかげで東京の樹木、公園、町並みが第2次世界で破壊されるまで保存されたことはこの二人に我々は感謝すべきです。この壁画は芸大講師 ルイ・フランセンの作。
②「勝・西郷会見の地碑」(芝 5─33─11)
慶応4年3月14日の薩摩藩蔵屋敷門前の抱屋敷(現在の三菱自動車ビル)。碑は「江戸開城、西郷南州、勝海舟、会見之地・・・西郷吉之助書」
③「雑魚場」(河岸)芝4丁目の本芝公園は「雑魚場」として登録されています。本芝・金杉両浦はともに将軍家御菜上納の元締めの地位を占め江戸湾44浦の羨望の的でした。この芝浦沖で取れた「芝海老」は代表的なものです。ここで取れる魚類を「江戸前」といつた。元芝公園の約1km北にあるのが金杉浦です。現在の金杉橋近辺に美味しい天ぷら・活魚の店が7~8軒有ります。お勧めは「あみ熊」(3451─0924)
④「水野監物邸跡」(港区芝5丁目20─20)
12月14日の吉良邸討入後47名の内9名が預けられた。翌年2月4日9名はこの邸内で切腹。
⑤「慶応大学」(明治4年、芝新銭座・昔、寛永通宝鋳造所に三田台上の旧島原藩邸を買い取って移転)図書館と三田演説館は重要文化財、福沢諭吉終焉の地碑、一昨年塾創立150周年記念事業、等。19日は日曜日で校舎の立替建築中の為、大学の中に入れないですが、我孫子の文化を守る会の三田会OBの事前交渉で我々23名は無事塾内見学が出来ました。
慶早戦で慶応が勝った時に必ず歌われる「丘の上」の歌詞
窓を開ければ海が見えるよ
朗らかに風は渡るよ渡るよ
あゝ嚠喨と理想のラツパを
あなたの空に吹きならそう
三田の丘の上から見た景色は我孫子の別荘高台から見た手賀沼の景色と非常に似ていると私は思っています。
⑥「綱坂」「イタリア大使館」「三井倶楽部」
この近辺の散歩は坂道ですが港区の誇れるエリアです。途中で慶応中等部の野球部の生徒拾数人が野球場に向かって歩いており、将来は神宮球場かで東京ドームで活躍していることでしょう。
⑦「歯科医学教育発祥地」(芝区伊皿子 70)
日本初の歯科学校(高山歯科学院)、この学校を血脇守之助が引継ぎ現在の東京歯科大学に至る。血脇は我孫子の人で13才の時に英語の勉強に慶応義塾別科に入学。又一時期福沢諭吉の時事新報社に在籍、先ほどの三田の丘の上で遊学されました。
血脇は野口英世の学資援助者でもあります。
⑧「大石内蔵助切腹の地」(細川邸)大石内蔵助等17名が自刃した場所。
⑨「泉岳寺」毎年12月14日の「忠臣蔵」で有名なお寺です。何時も線香の香りが途切れない今回の散歩の最終目標です。我孫子駅に着いたのは16時15分。7時間の散歩、万歩計は1万7千歩でした。(写真は慶應義塾図書館前で)

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年前の天王台駅北口側の様子と
「快速停車」に10年掛けた住民運動

中川 満

昭和45年春から販売が始まった青山台住宅地では、当時は天王台駅予定地は未だ造成工事中であり、通勤客は国道6号線に出て路線バスに乗り、我孫子駅まで30分位掛けて通っていた。
昭和45年7月1日、我孫子町は市制施行で人口約5万人の都市になり、翌46年4月20日には天王台駅が開設された。しかし駅から青山台方面へ行くには沿線の田んぼ道、下ケ戸側から旧相野谷踏切を渡る方法しかなく、雨の日は靴を手に持ち、裸足で歩くこともあった。世帯数が80近くになった青山台住民は、46年9月に自治会を結成し、「天王台駅への道路を早く造り、線路側の道には砂利を敷きつめて欲しい」と生活に密着した要望を出した。ところが、48年春、国鉄から「取手まで千代田線複々線化が実現すると、天王台駅には快速電車は停車不可能」と青天の霹靂ともいえる通知が来た。これに驚いた青山台住民(当時、既に350世帯を超えていた)は緊急会議を開き、市議会、国鉄、運輸省、国会議員などに陳情運動を繰り返すとともに、住民署名運動を展開した。その結果、53年3月8日、国鉄側から待望の快速停車決定の通知を受け取ることが出来た。
しかし、喜ぶのは未だ早く、我孫子─取手間の大工事は,沿線住民に工事の騒音、大型ダンプによる資材の搬入、地盤の変化、工事時間の制限、学童通学の安全など生活環境を守る運動が急務になった。青山台自治会内に「増線工事対策委員会」という専門部会を設け、工事側との細かい事項の折衝や交渉を粘り強く重ね、天王台駅に「千代田線と快速電車の停車確保」を達成したのは、57年11月15日のことであった。これは天王台駅付近を「陸の孤島」から守る10年間にわたる住民活動の成果であった。 

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「布佐の鎌倉物語」その後の展開

戸田 七支

布佐の鎌倉物語を手掛けて既に5年を過ぎようとしている。その間に新たな発見、展開が見られ、再度お話をする機会が得られた。
物語は鎌倉を目指し、下総国府に集結していた源頼朝軍団の内、頼朝の首脳陣一行が鎌倉へ出発する前日、治承四年(一一八〇)十月一日に湖北にある平将門社を参詣することから始まった。しかしながら将門信仰のレベルが頼朝の時代と後世とでは大きな隔たりがあり、かの赤松宗旦、柳田国男も頼朝の将門社参詣と云う発想に到達しえなかった。最近の研究によれば将門のホームグランドは茨城県の岩井市より、手賀沼周辺、柏市沼南または我孫子市の湖北と考えられている。将門に関する伝説が不自然なほど存在するからである。
頼朝にとって、何事にもまして将門社を訪れ、鎌倉での武運長久を祈願する必要があった。布佐下稲荷で発見された3枚の絵馬のうち、幼少の朝比奈義秀とそれを見守る和田義盛の絵馬に描かれている義盛が誤った人物に描かれていることが判明した。
和田義盛の末裔と称する人物、朝比奈義秀と関わりのあると思われる人物が私の住む布佐平和台3丁目に居住している不思議さ。そして極めつけは布佐を代表する人物、第17代榎本次郎衛門氏(榎本武一氏)より「我家の祖先は和田義盛の家来、鎌倉の落武者であったと云う口伝がある」との発言である。布佐の鎌倉物語にとってこれほど大変重要な発言はありません。義盛の根拠地と思われる布佐平和台の台地、最後の決戦が行われた龍崖山の古戦場、これ等はごく最近まで榎本氏の所有する土地であった。布佐和田城址和田塚略記の石碑を建てた斉藤唯之助は榎本氏の優秀な番頭であった。
人の世の相(すがた)のおもしろさ。

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文学掲示板

 平成二十三年一月展示作品(文学の広場)

昼の陽に紅の蓮咲き盛る
  茂みの中に舟は入りゆく
      取手 市毛 あや

白き泡に生を残してかまきりは
  落葉のごとく土に返りし
      緑  市地 結花

道の駅とふに手賀沼眺めつつ
  ケーキ食みをり旅人めきて
      柴崎 伊藤 とみ

わが沼の岸に佇むふたつ影
  水面に月の砕け散りつつ 
     流山 伊藤 昌男

白鳥の思ひ思ひに弧を描く
  手賀の岸辺に春への足音
      天王台 井上喜美雄

陽だまりに桜ほころび顔ほころび
  心ほころぶ手賀沼の春
      白山 今村 和平

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湖畔六句 「湖畔吟」三十二人一句より   

佐藤昭市選

山宿にひとり泊りて秋の蚊帳        川上  傳

逝きしもの逝きしままなり麦こがし    原口 季代

哀碑読む権兵衛渡し秋の風      森下  杜太

仲見世に胴掛けを買ふ十三夜       坂元 恵子

鹿島より女神男神の初筑波      岩淵 芋俵

芒洋と手賀沼醒むる蕪引        根本 三穂

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10回史跡文学散歩
「三偉人ゆかりの史跡を訪ねる」

前回(第99回)に引き続き血脇守之助ゆかりの地を訪ねます。その他我孫子に深く関わった二人の偉人嘉納治五郎、岡田武松に関係の深い場所も訪れます。 嘉納治五郎は嘉納後楽農園を拓き我孫子住民とも交友があった教育者ですが、一般的に知られているのは講道館柔道についてでしょう。講道館は明治15年に嘉納治五郎によって創設されました。
岡田武松は東京帝大卒業後ただちに中央気象台(現気象庁)に勤務し、日本海海戦当時の天気予報を担当しました。彼が出した予報「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」は日本に勝利をもたらした予報として岡田武松を一躍有名にしました。


1.   日 時11月25日(木)9時~16時(大手町解散)
今回は木曜日なのでご注意ください
(集合時間)9時(集合場所)我孫子駅改札口内
事前にJR「水道橋」までの切符を購入願います
2.コース  水道橋─講道館(嘉納治五郎)─東京歯科大学(血脇守之助)─気象庁(岡田武松)など。
(小雨決行)
講師・ガイド  伊藤一男(当会副会長)

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