我孫子の文化

会報 第133号 
平成23年7月1日発行
平成23年9月17日Web掲載

第31会記念文化講演会報告

今年度の文化講演会は5月22日(日)アビスタ・ミニホールに約60名の参加者を集めて開催された。  当日は志賀直哉最後の弟子といわれる三ツ木照夫氏から「回想 わが敬慕の師 ─志賀直哉」というテーマで晩年の志賀直哉についての思い出を語っていただきました。以下はその要旨。

    志賀直哉との出会い
「其日は朝から雨だつた。午からずつと二階の自分の部屋で妻も一緒に、畫家のSさん、宿の主のKさん達とトランプをして遊んでゐた。・・・」で始まる『焚火』を中学校の教科書で初めて読んだとき「これなら自分でも書ける」と、文学修行を始めた。それ以来志賀直哉の作品の書き写しに取り組んだ。先生の全作品を通読したのは勿論、原稿に書き写して勉強したほか、志賀直哉の声を録音したテープを旅行に持参し、旅館の夕食時などにもテープの志賀の声を聞き食事をするくらいまで熱心に勉強した。 日本大学大学院在学中、論文作成のため志賀直哉を訪ねようと思い、昭和337月4日、東横のれん街で手土産の早生の桃を買って志賀先生を初めて訪ねた。 それ以来、先生のお宅に書生のような立場で十余年、志賀直哉の人と生活に密着した。


  「私に対して癇癪を起されたこともあった」
ある時、私は包み紙と麻紐とハサミを渡され荷物を包むように言われ、包んでいたが、その出来があまりにひどかったので先生は癇癪を起した。そして「(映画監督の)小津君は、助監督時代にこういう仕事をやらされたこともあって、私の所へ物を送ってよこす場合、完璧に近い荷作りだった」と言われた。結局先生がその荷物を最初から包み直すことになってしまった。出来栄えは完璧な包装だった。
三ツ木写真

小津安二郎といえば昭和37年秋に私が「小津さんの作品が好きです」と言うと「それじゃ、今度試写会があるから君も来たまえと」と言ってくれ、「秋刀魚の味」を先生と一緒に映画館二階の貴賓席で観たことがある。先生は映画のなかでも特に小津さんの作品が好きだった。理由は「安心して観ていられるから」と言っていた。そういえば小津安二郎の映画のリズム(テンポ)と、志賀作品を写し書きしている時のリズムとが合っているような気がする。


  印象深い来客・升田幸三
将棋の升田幸三に対しては特に印象が深い。ある日、先生のお宅にいる来客を知らせるベルが鳴り、私が玄関番として表に出ると、下駄の音を響かせながら、和服の男の人が門をくぐって来るところだった。後ろから奥さんらしき人もついて来た。その人が将棋の升田幸三だった。朝日新聞社でパーティーがあったらしく、既に「出来上がった」状態だった。さらに酔いにまかせて夫人との馴れ染めをあからさまに語った。康子夫人は「それはおめでとうございます」と上手に受け流していた。帰り際に先生は『暗夜行路』にサインして升田夫人に贈られた。


  結婚
私が結婚することになって先生のお宅に家内を連れて行こうと電話をかけたが、電話をきった後、先生は奥さんに「あれが連れてくる女だから、目の下を青くした(飲み屋の)女に違いない」と噂していたようだ。実際に私が結婚前に家内を常盤松のお宅に連れて行き紹介した際、家内が先生と同じ未(ひつじ)年であることを言うと、「君が丑(うし)年だから、自分たちとは反対になる。六つ違いというのは干支でも縁起がいいんだ」と仰った。


  先生の衣・食・住
写真でも分かるように先生は洋服も和服も似合う方だった。世の中の流行は決して追わず、とにかく「いいもの」を大事に永く着こなした。家族に対してもそのようにさせた。 先生は大変な健啖家で沢山食べた。歳をとってから「もう100匁の肉が食べられなくなった」とこぼしていたが、100匁といえば375gなので尤もな話ではある。鯨の肉でおいしい部位をお腹をこわすほど食べた。正月の雑煮は鶴で出汁をとっていたが、これは中国の方が贈ってくれていたようだ。お歳暮に文芸春秋社からクリスマス用に七面鳥を贈られたこともあった。先生は甘いものが大好きで、若い頃「虫歯友の会」というのをつくり東京中の菓子を食べ歩いたと言っていた。 住いについてはよく言われるように「引越し魔」と呼ばれるくらい引越しを重ねた。その数、都合23回。因みに尾崎一雄は34回引越しをした。そのうち夜逃げが2回ある。先生の常盤松のお宅の間取りは子供部屋の状況がよく見えるよう考えられていた。我孫子でお子さんを亡くしたこともあってか子どもの事を大変大事にされたのでしょう。現代の子どもに対する虐待などを知ったら先生はきっと怒るでしょう。 「物を粗末にしない、無駄を嫌う」方だった。ある時私がマロン(栗)の入ったケーキを持参したところ、自分と奥さんの分だけ切り取って、その残りを「三ツ木君の子どもに持って行って貰おう」と言われた。先生流の合理的な考え方だった。


  運動神経
先生は立派な体躯をしていた。若い頃から運動神経抜群で、スポーツマンであったが、歳とってからも自転車の曲乗りをしたり、部屋の欄間(らんま)に逆さまにブラ下がったりしていた。


  百科事典
先生が亡くなった時、康子(さだこ)夫人が「まるで百科事典をとりあげられたような気持ちのことよ」と述懐された。私にとっても何からなにまで教えてくれる先生でしたから、全く同様の思いでした。


  「浅くとも清き流れのカキツバタ」 「浅くとも清き流れのカキツバタ」
 最近志賀先生について悪く書いたものに出合うことがある。生前、そういう場合に先生は「糧道を絶ってはいけない」と言われていた。すなわち「自分の悪口を書かなければ食べていけないような人なのだから、それを止めるようなことはしてはいけない」ということだ。ただ「不徳の奴」と先生は嘆くだろう。 (三ツ木氏著書『晩年の志賀直哉』により補足しました)


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平成23年度総会終了

 
上記講演会に先立ち、同日(5月22日)午後12時30分から同じ会場で平成二十三年度の総会を開催した。。

第1号議案  平成22年度事業報告 第2号議案  平成22年度決算及び監査報告
第3号議案  役員選出(案)
第4号議案  平成23年度事業計画(案)
第5号議案  平成23年度予算(案)
議案の説明のあと、出席者からの質問もあったが、すべての議案について原案通り可決承認された。当日承認された議案について第1号議案を除いて報告する。


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特別寄稿 楫西さんの思い出     大井正義

あんなにお元気でいらっしゃった楫西さんが、急逝されたことを知り、驚愕し信じられませんでした。惜しい人が亡くなられたことを残念に思います。  私は、伊藤一男さんが前号で嘉納治五郎の研究については「情熱迸る」とお書きになった楫西さんと、嘉納治五郎の我孫子・白山における学園設立構想を巡って熱心に議論をしたことがありました。この事は後に白樺派の人たちが我孫子にやってきたことに繋がるので大事なテーマでした。  議論になったのは、私が『杉山英と血脇守之助』に書いたように、東京高等師範学校校長の嘉納が明治二十二年にヨーロッパの教育視察に渡欧した際、ロンドン郊外三〇キロのテムズ川河畔にあり、詩人トーマス・グレイに讃えられたイートン・スクールを訪ねて魅せられ、同校のような伝統教育をおこなう学校を、自分も東京郊外三〇キロの風光明媚な手賀沼畔に設立したいと思ったこと。また、嘉納に手賀沼畔を学園立地として推薦したのは、学生時代に麹町の講道館で嘉納から柔道の手ほどきを受けた旧知の間柄であり、後に東京歯科医学専門学校校長となり、同じ教育者の立場にあった血脇守之助によるものであったことが推察できること、と主張したことです。  この私の説に対して楫西さんは、『嘉納治五郎』の年譜には、嘉納はロンドンに滞在したことは記載されているが、イートン・スクールを訪ねたことは記載されていない。嘉納が別荘地を購入したのは明治四十四年であり、その二ヶ月前から学園用地の二万余坪を手当し始めているが、これはヨーロッパ視察をしてから年月が経ち過ぎているので、用地購入時には学園構想はなかったのではないか。嘉納の日記は一般閲覧が許されていないので、イートン・スクールを訪ねたことは検証できない、と反論されました。  この楫西さんの説に対して私は、教育視察のためにロンドンに二十日間も滞在していた嘉納が、名門のイートン・スクールを視察しないことは目的が半減すること。同校はウィンザー城から約一.五キロ(私の目測)の処にあり、今日では同城を通る鉄道は廃線になっているが、ウィンザー城の入り口には古い蒸気機関車が展示されており、近くには線路跡が残っているので、嘉納がイギリスに行った時代は鉄道が通っていたことがわかる。従って、同校に行くことは容易であったに違いないこと。また、用地の購入まで年月が過ぎたのは、様々な活動をしていたからではないか、等々。  楫西さんと上述のような議論をしたことが懐かしく思い出されます。楫西さんのご冥福をお祈り申し上げます。合掌

 

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プロジェクト活動報告

 

「百人一首を楽しむ会」

我孫子の文化とは直接関係ないプロジェクト名であるが、本プロジェクトの趣旨は広い意味での文化を楽しむということで、百人一首を単に競技、ゲームとして楽しむだけでなく、歌成立の歴史的背景、歌人(作者)について勉強し歌を深く理解しようとするもの。
その内容は「100首をおぼえる(記憶する)」「上の句の一部を聞き下の句を(即座に)連想する」「100首の成立の背景と関連する当時の歴史を勉強する」「地方独特の百人一首の遊び方、楽しみ方を調査・研究する」「および上記に関係する雑学」などである。
今年の2月まで全部で21回開催した。
 ここでは直近の会での内容について報告したい

(1月の歌)

かささぎの 渡せる橋におく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける      (大伴家持 006)
(宮中の御階におりている真っ白な霜を見ると、もう夜も更けたのだと感じられる)

中国の伝説では、七夕の夜、牽牛と織女の、年に一度の逢瀬を守る為に、かささぎがその翼を広げ天の川に橋をかけるのだという。
カササギ(鵲)は、スズメ目カラス科に分類される鳥類の一種。別名カチガラスもしくはコウライガラスとも呼ぶ。中国語では「喜鵲」と表記。佐賀県の天然記念物に指定され、現在は同県の県鳥にもなっている。日本では佐賀県や福岡県といった有明海を取り囲む平野部を中心に生息していたが、近年は糸島市や福岡市西部にも分布を広げている。また、北海道・長崎県・熊本県・大分県の一部地域でも少数が生息しており、徐々に生息域が広がっている。
(歌の背景と家持の心境)
家持の祖父・父はともに主上に寵遇され大納言まで出世したが、家持は謀反事件に連座して官位を解かれ、京外に追放された。今や大伴家は冬の時代。
かささぎの橋は霜に凍りつき渡れないように、私は中納言で終わり。私の人生は闇の中であるよな。私の姿はまるでかささぎのようだ。悪人(全身まっ黒)と思われているが、本当は無実なのに(腹は白い)・・・。

今月の雑学

小正月・・・小正月とは、正月の望の日(満月の日、旧暦1月15日)のこと。現在は新暦1月15日に行われる場合もある。元日を大正月と呼ぶのに対してこのように呼ぶ。中国式の太陰太陽暦が導入される以前、望の日を月初としていたことの名残り。なお、この小正月までが本来の松の内であり、近畿地方では現在でも1月15日の小正月までが「松の内」である。
この日の朝には小豆粥を食べる習慣があった。古くは『土佐日記』や『枕草子』などにも、小正月に小豆粥を食べたことが記されている。現在でも東北の農村などに小豆粥を食べる習慣が残っている地域がある。これらの地域では、元日から小正月の期間中に小豆(あるいは、獣肉を含む赤い色をした食品全般)を食することが禁忌とされている場合が多い。年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、小正月は豊作祈願などの農業に関連した行事や家庭的な行事が中心となる。本来は人日(七日)まで竈を休ませるはずの松の内に、忙しく働いた主婦をねぎらう意味で、女正月という地方もある。

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(2月の歌)

嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな       (西行法師 086)
(「嘆け」と言って、月が私を物思いにふけらせようとするのだろうか?いや、そうではない。(恋の悩みだというのに)月のせいだとばかりに流れる私の涙なのだよ)
西行には「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)」という有名な歌があり、この歌のとおり文治6年2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。享年73歳。2月に桜の花は不自然だが、これは陰暦の2月で太陽暦に直して計算すると、1190年3月23日になる。同じような例で赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは、元禄15年12月15日(14日が一般的だが日が変わっている)の寅の上刻とされている。今の暦では1703年1月31日の午前4時ごろになるので、1年で最も寒い時期のしかももっとも寒い時間帯ということになる。

今月の雑学

如月(きさらぎ)の語源は、諸説ある。
@暖かくなったとはいうものの、それゆえに感じるうすら寒さのために、更に衣(きぬ)を着るという   意味から生まれた「衣更着」説。A陽気が発達する季節なので「気更来」または「息更来」という説。B草木の芽が張り出す月なので「草木張り月」説。C田を鋤き畑を打つところから「鋤凌(すきさらぎ)」説。D植物が芽生える「萌揺月(きさゆらぎづき)」説。E芽生えた木に降り注ぐこれからの雨は「木の芽張る雨」説。
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ノスタルジアの音楽  倉田 茂

 ノスタルジアは二十世紀に至り見事に俗化した。俗化は旅行会社やファッション界の企画にあふれ、ディズニーランドにおいて極まったといわれる。
 そのとおりだろう。しかしサバ(伊)の詩やフォスター(米)の曲からは、現在にも生きつづける深い懐かしさがきこえる。なぜなのか?
 ノスタルジアないしノスタルジー(仏語)はギリシャ語の「帰ること」と「痛み」の複合語。もともとはスイスに始まる医学用語(郷愁病)で、のちに一般化する。
 起源の事情や道筋はどうだったのか。二十一世紀の只今、ノスタルジアの新鮮な居場所はないのか。
 それを音楽のなかにーバロックから古典派、ロマン派、二十世紀音楽に至る作曲家、演奏家の思想や姿勢のなかに探ってみたいと、ずっと思ってきた。
 彼らこそじつは、それぞれの時代にノスタルジアの再生と再出発に心血を注いでいたのではなかったか、と。
 ここに抜粋して聴く主なものは次のとおり。
 世界の民謡から「ボヘミアの森深く」(独)「故郷の人びと」(米)。ヴィヴァルディ『バスーン協奏曲ホ短調』。シューベルト『冬の旅』から「おやすみ」「菩提樹」「ライアー回し」。ショパン「ポロネーズ13変イ長調」「幻想即興曲嬰ハ短調」「ワルツ19イ短調」「マズルカ45イ短調」。プーランク『ヴァイオリン・ソナタ』。
 演奏家はヘルマン・プライ、フィッシャー=ディースカウ(ともに独、バリトン)、アンヌ・ケフェレック(仏、ピアノ)、五嶋みどり(ヴァイオリン)たち。
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明治女医2名を輩出した岩手県金ヶ崎町 (武家屋敷群)の文化的背景について 」 福嶋 正和

岩手県南西部に金ヶ崎町という人口一万六千の町がある。そこには東西690m、南北980mの小さな武家屋敷群が江戸時代の情緒を残して現存しておる。明治後期にそこから明治女医が2名輩出したことを知り、その背景に地域的かつ時代的因があったのではないかと考え、調査した。(明治45年間に全国にも明治女医の輩出は239名にしか過ぎない)
相沢ミサホは牧師の家庭に出生し、キリスト教の影響下で生育し、明治39年にフィラデルフィア女子医大に留学、同医大を明治43年に卒業し帰国、日赤福岡県診療所で21年に亘って献身的に医療活動に専心した。しかし、戦時下には東京に転居、空襲のため故郷岩手県に疎開するなど、晩年は医療に不完全燃焼のまま昭和44年に他界した(享年84歳)。
 志賀ミエは貧乏士族の家庭(江戸時代に伊達家の藩医となった家柄)に出生し、父親の期待に反して兄が法律家になったことから「医者になれ」との兄の勧めもあり、東京の医学校で苦学を重ね医術開業試験に3回失敗するも明治44年に合格し医師登録された。大正元年に宇都宮にて医院開業し、深夜の往診も厭わず患者の信頼を得て門前市をなしたという。昭和48年に他界(享年94歳)。
 明治女医2名を輩出した時代的要因として

  • 自由 民権運動の台頭
  • 女性の社会的地
  • 教育制度
  • 女子の入学できる医学校を
  • 地域的要因として
    藩政時代からの教育風土
    キリスト教普及
    岩手県南西部での偉人輩出等から考察した。しかし、最も明らかな要因として2名に共通しているのは、執念とも思える父親の教育への情熱であり、このような父親を育てた主因は戊辰戦争での敗北による薩長新政府への負けじ魂・意地が脈々と流れていたからではないだろうか。

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    文学掲示板

    平成23年5月展示作品(文学の広場)

    並び立つ背高きポプラの沼の面に
     映りし時を懐かしみおり
                        つくし野 岩崎 孝次
    沼わたる東風を孕みし小波に
       夕陽またたき仄かに梅ヶ香
                        松戸 蛯澤 恵子
    冬枯れの寂色のなか沼の面に
       浮く水鳥は艶増してをり
                       我孫子 海老原恵美子
    梅雨晴れの暑き真昼に光りゐて
       大輪向日葵左に傾く 
                          松戸 大塚 玲子
    楽しげに語り合う友ふと黙す
       静寂の一瞬沈む手賀の陽
                        湖北台 大森 澄夫
    桜舞う吾子の手を引き去年も来た
       手賀の小径よ孫と来るまで
                         栄 大屋 繁

    楚人冠五句「序跋詩歌集」より 杉村楚人冠

    ─昭和五年以前─

    花に渡す橋を渡月橋と申しけり    

    花を餘所にたらふく飲うで来つるよな       

    初午やふけて狐の小ざかもり

    手すさびや落ち散る藤の小半丁

    長女がみまかりし冬の春上巳の節句に、去年までは雛祭も
    行ひたりけるを、今年はそれも叶はずと、祖母上の嘆かせ玉ひて、せめてもの心やりにと、雪洞(ぼんぼり)を佛壇に供へられけるを見て

    ぼんぼりを御燈明(みあかし)に喪の雛まつり

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    第102回史跡文学散歩
    「我孫子駅周辺に残る志賀直哉ゆかりの地」

    今年度は志賀直哉ゆかりの地を中心に訪ねる史跡散歩を企画しました。第一回目として我孫子駅周辺に残るエピソードをいくつか紹介します。
    1.日時 6月12日(日)9時、我孫子駅南口集合
    2.コース  石橋製糸工場跡─回春堂跡─陸前浜街道踏切─第一小学校─滝井孝作旧居─子の神大黒天延寿院─里見ク別荘跡─志賀直哉旧居─三樹荘─香取神社─我孫子駅 (小雨決行)
    講師・ガイド  越岡禮子氏(当会副会長)
    参加費  会員 無料、 非会員 500円
    申し込み TEL&FAX (七一八四)二〇四七
          越岡まで (締め切り) 6月5日(日)

     


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    今後の行事予定


    「放談くらぶ」

    日時 4月3日(日)14時〜16時
    会場 アビスタ、第3会議室(定員25人)
    講師 倉田 茂氏(当会会員、日本ペンクラブ会員)
    演題「ノスタルジアの音楽」 ヴィヴァルディからプーランクまで、中心はショパンとシューベルトを聴きながら    読書体験も含めて、体験や考えたことを語ります。◎参加費 会員無料 非会員三〇〇円

    日時 6月5日(日)14時〜16時
    会場 未定
    講師 福嶋正和氏(当会会員)
    演題「明治女医2名を輩出した岩手県金ヶ崎町(武家屋敷群)の文化的背景について」

    プロジェクト開催予定

    「歴史文化くらぶ」(旧名 我孫子の歴史と文化を楽しむ会)

    今年度から奇数月の第一日曜に変更。
    テーマ 平将門のうた─自作の和歌を古代文字で書き、伊勢神宮に奉納─
    日時 5月7日(日)14時〜16時
    場所 東高野山自治会館(天王台駅歩8分)
    話者 三谷和夫氏(本会前会長)
    参加費 200円(会員無料)先着20名(4月30日迄)
    申込み・問合せ先 三谷(七一八三)一〇七七

    「関東の建築探訪」


    日時 4月21日(木)(3月30日(水)に予定していましたが東日本震災のために延期しました)
    場所 野田高梨家美術館など
    申込み・問合せ先 吉田(七一八三)七三七九
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    当会の最近の動き(報告、予定)


    散歩部会

    3月27日予定していた第101回史跡文学散歩「旧湖北村の歴史を訪ねて|中里、中峠を歩く」は東日本震災の関係で中止としました。
    当日は中止の連絡が届かなかった参加者2名のため田中由紀氏が予定コースを案内しました。

    手賀沼部会(予定)

      「美手連」総会、 5月29日(日)13時より
      講演 青木直芳氏(昆虫研究家)
      「昆虫の目から見た岡発戸の自然」

    研修部会

       2月6日(日)放談くらぶ「相島芸術文化村への想い」は講師が体調不良のため急遽、三谷、藤井、菅野の3氏が「井上家」に関するテーマで講演しました。
     

    ◎雑誌『白樺』創刊百周年企画展記念講演会

    日時 4月21日(木)14時〜15時30分
    会場 アビスタ2Fミニホール
    講師 村上智雅子氏(当会役員)
    「志賀直哉と我孫子」─作品・家族・地域の人々とのかかわり─
    参加費 300円、大・高生200円、中学生以下100円 先着70名(要予約)
    申込み 白樺文学館(七一六九)八四六八


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