「我孫子の文化」第137号 2012年7月1日発行 Top pageへ

 

目次

第三十二回文化講演会報告

平成二十四年度総会

第105回史跡文学散歩(報告)

プロジェクト報告

 関東の建築巡り

 手賀沼の自然と楽しむ会

楚人冠うら話

第106回史跡文学散歩

会員からの投稿

今後の行事予定

当会の最近の動き

 

 

第三十二回文化講演会報告

今年度の文化講演会は5月27日(日)北近隣センター並木本館に中村教育長ご出席のもと、約50名の参加者を集めて開催された。

 当日は楚人冠研究の第一人者の小林康達氏から「杉村家資料と杉村楚人冠の景観保護思想」というテーマでお話しいただきました。以下はその講演要旨。

 

杉村楚人冠と杉村家資料

私は2000年から杉村家の資料の調査、整理に当たり『杉村楚人冠関係史料目録』の発行に携わった。杉村家に残された楚人冠の資料からいくつかお話をしようと思う。

白瀬矗(のぶ)隊長率いる探検隊が日本人として初めて南極にその足跡を記してから今年は丸100年。楚人冠はその探検を支援するため朝日新聞社を動かし、寄付金を募り、自らも健筆をふるった。とくに南極探検後援会や新聞でこれからは学術探検の時代であると繰り返し訴えた。その20年後、楚人冠の主張を評価していたことを記した白瀬中尉からの手紙が杉村家の資料に残っている。

今日の話の主題である手賀沼の景観保護についても、杉村家に残されていた資料のおかげで、その歴史を知ることができ、後の景観をまもる運動につながったといえる。

 

楚人冠の田園生活志向

楚人冠は明治35年4月、29歳の時、郊外の大森(荏原郡入新井村)に転居した。当時、近所には徳富蘇峰も住んでいた。大森は海にも近く自宅からの景色を眺めたり自転車の遠乗りや海水浴を楽しんだりした。もともと田舎暮らしや田園生活志向があったと思われる。明治36年東京朝日新聞社に入社、4年後に特派員としてロンドンに派遣された。英国の新聞に寄稿した記事を読んだデビス老人の誘いで、英国中部のレミントン(レムの里)を訪れ、そこの美しい4つの公園や近隣の古跡などに触れ、また現地の人々と親しく交流し、都会にはない人と人との関係の良さを知った。こうした経験をもとに楚人冠の自然と歴史と人間関係を基に成り立つ、景観のあるべき姿についても考えがまとまったと思われる。『大英游記』や『半球周遊』に「レムの里」のことが記されている。

 

南方熊楠の神社合祀反対運動を支援

明治19年、楚人冠は、郷里和歌山に戻っていた5歳年上の和歌山中学の先輩南方熊楠と頻繁に交流し、熊楠の渡米する際、和歌山で送別会を企画し、渡米後何度も文通した。しばらく音信が途絶えたが、明治42年『大阪朝日新聞』」に全国紙としては初めて熊楠を紹介した。その直後に、熊楠の神社合祀反対運動が始まった。神社合祀令とは一町村には一神社とすべきというもので、もとともそれぞれの部落(江戸時代の村)毎にあった神社を統合しようというもので、熊楠はこれが神社林、すなわち自然を破壊し、また村人の信仰の破壊につながるとして猛烈に反対、和歌山の新聞『牟婁新報』に神社合祀反対の論陣を張った。楚人冠は熊楠の主張を基に「乱暴なる神社合祀」などの記事を書いて、熊野の森林の乱伐に対し警告を発し、この運動を支援した。

 

手賀沼との出会い

明治44年11月、楚人冠は鴨猟取材に初めて手賀沼を訪れ、往復の汽車の窓から眺めた手賀沼湖畔の景色に魅せられ、「こんな処に物静かな住居を構えたら」と「白馬城放語」に書いている。同じ大森に住んでいて子の神に別荘を構えていた島田久兵衞の案内と勧めで、翌年我孫子に別荘白馬城を設けた。その直後、県の手賀沼干拓計画が発表されると、大正2年12月「朝日新聞」紙上に投書「手賀沼の為に」を掲載、手賀沼の保存を訴えた。

 

手賀沼の景観保護運動と、その思想

関東大震災の翌年、楚人冠は一家で我孫子に転居したが、大正15年、国営手賀沼干拓計画が起こると、同地に別荘を持つ柔道の嘉納治五郎、東京帝大教授村川堅固などと相談し、庭園協会の理事長本多静六博士らの助言によって手賀沼保勝会を作って干拓反対の運動を進めようとした。その趣意書には、干拓は何時でもできるが、一度干拓されてしまえば元の沼には戻らないことを説き、東京から最も近い手賀沼の景観や水資源を保存して観光、リクレーション、住宅地などに活かすことを訴え、県の淡水養魚試験場の誘致に努めた。また、国に干拓中止の陳情書を出すなど、手賀沼の景観保護を再び訴えた。

しかし一方で地元では水害から農地を守るとともに農地拡張は長年の念願であったことから国費による手賀沼干拓は魅力ある事業だった。また、養魚試験場を作るには地元からの土地と寄附金が必要であったため我孫子町会で、全会一致で否決されてしまい、保勝会は厳しい立場に立たされた。楚人冠らは地元住民との融和を第一に考え、あえて保勝会の形式的な発足にこだわらなかった。地元民との意思疎通を図るため駅長、町長など「長」の肩書きを持つ人の集まり「長の会」をつくったり、青年たちを誘って俳句結社「湖畔吟社」を結成、さらに干拓に頼らない町おこしの策を提案した。我孫子ゴルフ倶楽部設立などもその一つであった。その後、楚人冠らの景観保護運動と思想は、手賀沼の県立公園指定や「我孫子風致会」へと引き継がれていき、地元の自主的な活動が芽生えていった。

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平成二十四年度総会終了

 

5月27日、講演会に先立ち、同日午後12時30分から同じ会場で会員25名が出席して平成24年度の総会が開催された。

第1号議案  平成23年度事業報告

第2号議案  平成23年度決算及び監査報告

第3号議案  役員選出(案)

第4号議案  平成24年度事業計画(案)

第5号議案  平成24年度予算(案)

議案の説明のあと、出席者から活発な意見、質問もあったが、すべての議案について原案通り可決承認された。当日承認された議案について第1号議案を除いて報告する。

 

第105回史跡文学散歩(報告)
「志賀・大町・芥川が訪ねた布施街道を歩く」

に参加して

                                                        横山 晃

3月31日(土)9時、我孫子駅北口に集まったのは28名、天気予報は風雨でしたが、雨に降られることなく、あけぼの山公園入り口行きのバスで布施荒屋敷で下車。越岡さんの案内のもと最初の目的地、善照寺へ向かいました。

善照寺の宗派は時宗(不断念仏を勧める僧俗のことを時衆と呼んだことから時宗になったといわれています)で山号を晋龍山、本尊は阿弥陀如来です。布施の旧家に生まれた戦後の女流俳人、坂巻純子、生家代々の墓もありました。

次に香取神社、小ぶりの社殿外壁に中国の故事が精密に彫られていました。続いて南龍寺。浄土宗で山号を竹林寺、本尊はここも阿弥陀如来、観音堂は相馬38か所26番札所の大師堂ともなっています。七里ヶ渡し(幕末迄幕府が定めた新利根川の16か所の船場の一つ)の遭難供養の法事をしたそうです。又、明治期、学校もおかれていました。

このあたりの布施街道(旅人の世話をする「布施屋」が布施の地名のおこり)筋には、坂巻純子の生家、布施村きっての豪農・後藤七郎衛宅や旅籠橋本屋があり、石柱には屋号、同姓の家々が並んでいました。

その後、あけぼの山公園に。ここは古くから桜山として今でも近隣の人々に親しまれている桜の名所。

公園の一角に小林一茶の俳文碑

 「米蒔くも罪ぞよ鶏がけ合うぞよ 一茶」 がある。

この場所に隣接して日本庭園「拍泉園」もあります。

最後に、布施弁財天(紅龍山東海寺)を訪問。真言宗豊山派、布施弁天と東海寺の二つを併せた寺で関東三弁天の一つに数えられています。布施弁財天は新大利根大橋がかかる雄大な利根川を見下ろす、こんもり茂った高台に位置し、重要文化財にされています。あけぼの山から弁天に通じる松林の参道の右手に鳥居(昔の参道上か)があり、石段を上り、武将姿の四天王が出迎える楼門をくぐり、右奥の鐘楼を観ながら正面の本堂を参拝。ここも、江戸時代より遠くから多くの参拝者が訪れています。

布施弁天から北へ徒歩15分程に渡し跡があります。

ここは長谷川伸の「一本刀土俵入り」の舞台にもなっています。

布施を訪れた文人達は小林一茶、大町桂月、志賀直哉、芥川龍之介、長谷川伸・・・など。

長谷川伸の「・・・しがねえ姿の横綱の土俵入り・・・」の名台詞の紹介で今回の史跡巡りの名案内も幕。

帰路、♪梅は咲いたか、桜は未だか・・・の時季だったがあけぼの山公園の紅梅は満開、桜は未だでした。

行きと同様の行程で我孫子に着いたものの、昼前からの強風で常磐、成田線の運休、遅延で帰宅が予想外に遅れたが、これも思い出の一つになりました。

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(プロジェクト報告) 

関東の建築巡り (第11

皇居東御苑を廻る」     

斉藤 清一

三寒四温の平成24年3月22日の暖かい日に皇居東御苑を7人で訪ねました。

地下鉄大手町駅下車しましたが、時間調整で出口の近くにある平将門塚に立ち寄りました。朝廷に反旗を翻して、下総に独立国家を建てようとした平将門の首を埋めたと伝わるところです。ビル街の木立の中に墓碑と石灯籠が立っている。天慶3年(940)、朝廷の使者によって将門の首は京都の三条に晒されたが、その首が空を飛んでこの地に降りたとされている。

横断歩道を渡って大手門に向かう。長禄元年(1457)太田道灌が築き、天正18年(1590)徳川家康が入城して以来、約270年にわたって徳川幕府が本拠地としていたのが江戸城。明治2年(1869)から「御所」となり、昭和23年から「皇居」となっています。その皇居の北東側、江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡を整備したのが東御苑とのこと。昭和43年10月1日から一般開放され皇居付属庭園(21万平方メートル)としての東御苑は天皇皇后両陛下がお住まいになっている皇居の一角(東側地区)です。

大手濠を渡って江戸城の正門に当たる高麗門と大手渡櫓門からなる大手門を通りぬけたところに「宮内庁三の丸尚蔵館」があり、3月〜8月までの期間で開催されている皇后陛下喜寿記念特別展示「紅葉山御養蚕所と正倉院裂復元のその後」を鑑賞しました。

その館の後方に「二の丸庭園」があり二の丸御殿跡と小堀遠州作といわれる庭園のあったところですが、池泉回遊式庭園が復元されていました。

 東御苑は遺構が沢山残っているところであり、ワクワクしながら案内順路に沿いながら坂道を登りはじめました。

 同心番所、百人番所を通り大石垣の中之門跡、中朱雀門跡には何処からか運ばれた数多くの大石と各大名の工事に携わった人々の苦労が推測されました。大石積みの一寸の狂いも無い当時の土木工事の素晴らしさも驚きでありました。

「本丸大芝生」・・・開放された芝生地ですが大火後の本丸の跡地でもありました。広大な土地の周辺の桜の木のうち3月の今日は緋寒桜・冬桜が咲いていました。

「大奥」・・・開放された芝生地ですが、通り抜け。

「天守閣跡」・・・約44m四方、高さ約18mの天守台石垣が残る慶長12年(1607)に建てられた高さ51m・5層の天守閣は明暦3年(1657)の大火で焼失。その後再建されなかった。天守台石垣から丸の内、日比谷、のビル街が眺められた。

「松の廊下跡」・・・本丸御殿の大広間から白書院へ通じる大廊下が松の廊下。松と千鳥の障壁画があったことからこのように呼ばれていた。

石室・竹林・茶畑・桜の島などと名前のついた場所を巡りました。本丸休憩所の横を通り展望台に登る。眼下に白鳥濠を見ながら大手町のビル街と日本武道館を眺め北桔門をくぐり北の丸公園に向かいました。

「科学技術館」・・・科学技術や産業技術に関する知識を広く普及、啓発する目的で1964年に開館。青少年(特に小学生)を対象とした博物館である。館内で食事をとり「太陽日食メガネ」を購入する。

「東京国立近代美術館」・・・日本初の国立美術館として1952年に開館。日本画、洋画、彫刻、水彩、素描、写真など約10,000点の作品を所蔵。

4F 明治・大正・昭和期の美術

3F 昭和戦前期・戦後〜1960年代の美術

2F 現代美術 を鑑賞しました。

帰途大手濠に架かっている平河門を過ぎると気象庁前のバス停があり濠に近づくと和気清麻呂像と震災で焼けた大木と岡田武松の説明書きが立て看板になっていた。我孫子に住む人間として誇りを抱いた時でした。

 皇居外苑・北の丸公園は今まで何度も訪れたが東御苑はまた一味違った趣とロマンの漂う処と感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 手賀沼の自然と楽しむ会

「利根運河の観桜会」

飯高美和子

4月13日(金)桜で知られる利根運河を散策しました。前回までは手賀沼の四季折々を愛でつつ沼の自然を満喫してきましたが、今回は杉村楚人冠にゆかりのある運河の自然を楽しみました。

東武野田線の運河駅で下車し野田方面に出ると、そこには対岸の土手一面に桜が咲き誇り青空には花弁が風に舞い川面を埋めていました。

土手を上流の利根川方面に10分程歩むと対岸に東京理科大学の堂々とした校舎が眺められる「眺望の丘」に着きます。ここは別名「パーゴラの丘」とも言われ、地元在住の陶芸家田口佳子さんの陶板が建っています。丘からの眺めは運河沿川最も素晴らしい処と言われ、蛇行する上流への曲線は見事でした。

眺めに感動しつゝ、又駅方面に戻り下流の運河地帯で中心的な建物「利根運河交流館」と対岸に割烹「新川」のある辺りを散策し、昼食の花見の宴を楽しみました。

「利根運河交流館」の方の説明によれば、利根運河は利根の船戸(柏)と江戸川の深川を結ぶ全長八・五キロ余の人口の河だとのこと。江戸時代、東北の物資を江戸へ運ぶ船は銚子沖から利根川と江戸川を利用して運航されていましたが、利根川の上流・関宿と野田の間に浅瀬が広がるようになると運航不可能となり陸上輸送により困難を伴いました。やがて明治の初めになると蒸気船の発達と共に運河の開削が急務となります。ようやく明治23年、民間資本(利根運河株式会社)によってオランダ人技師ムルデルの設計で現在の運河が完成します。この開削工事は当時のお金で57万円もの工事費と200万人の人手をかけ二年間でようやく完成したと言われます。昭和17年に鉄道と自動車の出現によって運河もやがて使われなくなり国に払い下げられ現在に至っています。

「交流館」に向かい合って杉村楚人冠も利用したと言われる割烹「新川」の古風な建物が建っています。運河の周辺には幾つもの沼や小川があり、里山の自然の景観が多く、今もこれらの景色が眺められる素晴らしいエコロミュージアムとなっています。

 

 

 

 

 

 

 

楚人冠「うら話」 
                   
                                    美崎 大洋
 昨年の「楚人冠記念館」開館によって我孫子市民の楚人冠についての関心は一段と高まったこと思われるが、一方で相変わらず楚人冠について間違った情報や記述が流布されているのが気になる。私なりに三大間違いと定義しているのは次のものである。

@     ペンネーム「楚人冠」の採用の経緯

A     「天声人語」の命名者は楚人冠

B     石川啄木を朝日歌壇の選者に抜擢したこと

これらについてひとつひとつ検証してみよう。

@     最近出た我孫子の人物について書かれた本の「楚人冠」の章でも楚人冠のペンネームを使用した理由は「米国公使館に勤務していた時、白人と差別的扱いをされたから」となっているが、これは間違いで、単にシルクハットを納める函をよく間違えるため区別をしたのがその理由である。

A     当時、朝日新聞社は東京朝日と大阪朝日と分かれており、楚人冠が入社したのは東京朝日新聞社であった。「天声人語」は大阪朝日のコラム欄の名称として使用されていた。

B     当時、朝日新聞で文化欄を担当していたのは社会部の部長だった渋川玄耳で、その玄耳が校正係であった啄木を「朝日歌壇」の選者に抜擢した。玄耳と楚人冠はともに東京法学院(現中央大学)に在籍していた旧知の仲で玄耳は何でも楚人冠に相談していた事実はある。

楚人冠について興味を持って調べていくうちに、いわゆる楚人冠の正史(表の歴史)とは別に彼のユニークな人柄から生まれた「うら話」「こぼれ話」に面白いものが沢山ある。そんな話を披露させて貰おうと思っています。

 

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第106回史跡文学散歩(報告)

「旧我孫子宿と楚人冠記念館を訪ねる」

                          伊藤 一男

 6月17日(日)午前9時、我孫子駅南口に総勢24名の参加者が集う。明け方まで降っていた雨は幸いにもほとんど上がり、参加者の顔も一様に明るい。「皆さんの日頃の行いがよいのでしょう」と、冒頭に藤井会長の挨拶。次いで本日のガイド役の越岡副会長からコースの概略説明があった。最終目的地は杉村楚人冠記念館であるが、玄関口の我孫子駅から出発して旧我孫子宿の古い史跡に触れながら、散策を楽しもうという計画だ。

 先ずは集合場所すぐそばのユニークな「汽車ポッポの碑」として市民から親しまれている飯泉喜雄顕彰碑の説明から始まった。明治29年、現在の常磐線開通の折り、私財の大半を無償提供して駅の誘致を成功に導いた同氏の功績をたたえようと、わが会が中心となって建設した碑だ。来年、建設10周年を迎える。また駅前のロータリーから駅前通りに続く角には、明治35年頃に建立された停車場道碑もあり、これも駅前道路の整備にも尽力した飯泉喜雄の功績を物語るものである。同氏の町の発展を願う情熱に頭が下がる思いだ。

 駅にまつわる話題として、最近、「唐揚げそば」で一躍有名になった駅構内のそば屋・弥生軒に画家の山下清が働いていたというエピソードを聴きながら南へ下って旧我孫子宿の鎮守様、スサノオ命を奉る八坂神社から本陣家の墓がある興陽寺へ。この頃からまた無情の雨がぱらついたが、俳人・石田波郷がここを訪れた話や戦後の下山事件で他殺説を主張した秋谷七郎博士の菩提寺であったことなど、興に乗ずる越岡さんの説明を聴いていると、つい傘をさすのも忘れてしまう。次いで旧我孫子宿の西の入り口にある馬頭観音堂を見学。馬頭観世音がまつられ、祠の中に絵馬があることなど、今日初めて知った人も多いようだ。ここで線路沿いに東へ進み、再び我孫子駅前へ戻る。

小休止のあと、現在はイトーヨーカドーになっているが、明治期の鉄道開通のあと山一林組が製糸工場をつくり、最盛期には400人に近い女工さんが働いていたという。近くに蚕霊塔が今も残っている。次いで、現在も茅葺き屋根が残る小熊家の脇本陣跡を外側から眺めながら旧水戸道中を向こう側に渡って本陣跡や問屋場跡の説明を聴く。途中に「従是子神道」の道標を脇に見ながら大光寺の方へ折れる道の角へ。ここが血脇守之助が生まれた我孫子宿旅籠「かど屋」があったところ。同氏はわが国の歯科医師界の発展に尽力した人で、野口英世を物心両面から支援した話は有名。次に大光寺の脇を通って我孫子宿の産土神の香取神社へ。大正12年の震災後、50本のケヤキが植樹され、今でもその名残が数本残っている。

 いよいよ本日の最終コースの楚人冠公園と楚人冠記念館へ向かう。もう昼も間近だ。公園からは手賀沼の眺望が拓け、反対側には筑波山も見えたのであろう。河村蜻山作陶の楚人冠句碑には、「筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に」とある。楚人冠と手賀沼との出会いや同氏の業績などの説明を受けたのち、楚人冠記念館の方へ下りる。昨年11月、市の指定文化財として公開された記念館は、起伏のある庭もすっかり整備され、木々の緑が目にまばゆい。朝から低くたれ込めていた雨雲も嘘のように消え失せ、梅雨の合間の日射しがカッと照りつけていた。楚人冠記念館はすでに見学した人もいたので、希望者のみ入館し、本日の散歩の会はここで解散となった。ポンポンと小気味よく発せられる越岡さんのガイドに、よくぞこんな細かいことまでご存知だなあと感嘆しきり。

 なお、楚人冠記念館では、楚人冠が遺した数多くの著書・蔵書や多彩な分野の友人・知人からの書簡、当時を偲ばせる記念品、調度品などが陳列されており、我孫子をこよなく愛した名ジャーナリストの生活の一端に触れることができた。係員の説明も明快で有意義な見学であった。(写真は杉村楚人冠記念館と園内)

 

 

 

 

 

♪♪新プロジェクト立ち上げについて♪♪

 「音楽を楽しむ会」を新たなプロジェクトとして開始します。古いレコードや録音テープ、CDなどを聴きながら作曲家・作詞家にまつわる話や音楽の歴史を楽しみながら勉強します。興味あるテーマを広く浅く学びませんか?開催日(月1回、平日午後)はこれから決定します。希望者は美崎まで(7182)0861

 

楚人冠のメッセージ愛する手賀沼と共に

刊行のお知らせ

「我孫子の景観を育てる会」は、会設立10周年(平成23年6月)記念事業の一つとして、手賀沼が今日在ることを、杉村楚人冠たち先人の活動軌跡から紐解いてみました。百年前の美しい手賀沼と楚人冠のメッセージ、幾多の干拓の危機、小さいながら残った今の手賀沼、百年後の手賀沼に寄せる思い、そして楚人冠の景観観などを、3年かけて研究・学習し、この度A4判90ページにまとめて刊行しました。

当会会員からは、「百年後の手賀沼に寄せる思い」

について、三谷和夫名誉会長、藤井吉彌会長、越岡禮子副会長、美崎大洋副会長の四氏が執筆しています。

発行部数は500部で非売品です。千葉県立図書館(予定)、我孫子市民図書館、柏市立図書館などで見ることができます。

問合せ先 090(6034)9149 

我孫子の景観を育てる会

 

山武郡横芝光町で「世界の人形展」を開催予定

  当会会員、康治氏(「世界の人形館」代表)が協力

 

我孫子市の「世界人形館」を訪れた横芝光町の方が地元での世界の人形展開催を発案・企画したところ、

さんが全面的に協力を約束。7月28日〜8月26日の期間で町立図書館町民ギャラリーにおいて開催されることになった。同町は成田空港関連の仕事に携わる人が多く国際意識が強い土地柄ということもあり関心も高まることが期待される。

主催・・・横芝光町教育委員会

 

(総会報告)決算、予算書については省略。

第3号議案

役員選任

(会長) 藤井 吉彌

(副会長) 伊藤 一男、越岡 禮子、美崎 大洋

(幹事)飯高 美和子、田口 ふみ、戸田 七支、

村上 智雅子、田口 仁、吉田 とし子、

斉藤 清一(新任)

(監査)若月 愼爾、吉澤 淳一

 

(退任)宮本 瑛夫、黒澤 里子

 

第4号議案

.総会、文化講演会(5月22日)

.史跡文学散歩(6,9,11,3月に予定)と新たな史跡ガイドの実施

.放談くらぶ(偶数月第1日曜午後)

.文学の広場掲示板への短歌6首掲示(年3回、1ヶ月間)

.「美しい手賀沼を愛する市民連合会」への参加と

活動

.飯泉喜雄顕彰碑の紹介・宣伝

.我孫子市の文化財発掘・保護の推進  

.小中学生を対象とした郷土文化の啓発活動

.文化活動関係団体との連携協力

10.プロジェクト活動の活性化

11.会員の文化活動の交流推進と新会員の勧誘

12.ホームページの充実

13.杉山英先生の業績顕在化

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会員からの投稿

 

市民による高齢者支援の取組み

折原 淳二

10年ほど前、退職した。天王台駅からJR飯田橋に通勤する「会社人間」だった。我孫子に住んで25年にもなっていたが、地元のことは全くわからないでいた。

これからは、この地域で地元の人の役に立つ仕事をしたいと思い、我孫子市役所に出向いた。

市民活動支援課の係員から「いま我孫子市は高齢化が進み、高齢者の家庭内事故が多いのです。高齢者がこれからも安心して暮らせるように玄関・廊下や階段に手摺を付けたり、部屋などの段差を解消して、転倒や転落による家庭内事故を無くさなければなりません。そのために住宅環境の改善が必要なのです」と。当時はまだ介護保険制度や市町村の住宅助成制度が無かったため、住宅改善は自己の費用と責任で行わなければならなかった。そのため住宅改修は遅々として進んでいなかったようだ。私の話を聞いて、係員の上司は市内のボランティア団体の中から一つの団体を紹介してくれた。

翌日、ボランティア団体の代表に面接し入会した。その後平成11年5月に「特定非営利活動法人」の申請をし、NPO法人として認可され、「NPO ・D」として新たにスタートした。当時の会員数は40数名だったと思う。

平成12年4月に介護保険法が施行され、工事費の自己負担が1割になったため、住宅改善の仕事が大幅に増えてきた。市内の各団体も忙しくなってきた。

平成14年は、会議や住宅改修の仕事で100日ほど家を空け、会社に勤めていた時とあまり変わらないハードな日々が続いていた。

工事の日・時は依頼者の要望で決まる。そのため、材料や用具を予め準備しておくが、作業をする人の手配など、連絡調整などに苦慮したことが度々あった。工事の日は、それぞれが弁当持参で軽トラックとライトバンに分乗し現地に行く。何のことはない、背広が作業着に変わっただけで退職後も相変わらず忙しい毎日だった。家では作業衣の洗濯などの後始末に追われていたようだ。

「退職後は二人で各地の歴史・文化に触れる旅を計画していたのに・・・」と妻。

初夏の頃だったか、平屋の簡素な家に住む高齢で一人暮らしの女性の家の仕事をした時のこと。玄関、廊下、トイレの手摺を取り付け、居間から庭へと下りる三段の階段をスロープにして両側に手摺を取り付けて庭に出やすいようにした。仕事が終わり、点検して頂いた。

「明日から、いつでも自由に庭へ出て、花や木の手入れができる。うれしい」と、満面に笑を浮かべ、喜んでいた。この光景は、今でも私の脳裏に焼き付いている。

NPO・D」の15年間の活動実績を調べてみたら、高齢者・障害者の住宅1,600軒に、手摺の取り付けが6,800本、段差解消その他が4,030件となっていた。

NPO・D」の理事会は毎月、総会は5月に開催している。仕事の少ない2月下旬にはメーカーとの共催で「技術研修会」を開催し、新製品・材料の取り付け方などを実習し、次の仕事に活用した。研修会には、団体間のコミュニケーションを活発にするため、柏市の団体にも参加してもらった。研修の場所は、我孫子の材木店の加工場の隅を借りて、毎年実施した。

平成14年9月、第1回バリアフリー化推進功労者表彰式と祝賀会が、総理大臣官邸で開催され理事長と出席した。小泉内閣総理大臣表彰が二団体、福田内閣官房長官表彰が九団体で表彰対象は全国の都道府県が推薦した個人・団体の中から「施設の整備、製品の開発等の活動で顕著な功績があった」などを評価・審査して決めていたようだ。

「会社人間」で四角四面の私だったが、この「NPO・D」の10年間に高齢者の方々や仕事仲間が、私のカドを削ってくれた。おかげでいくらか人並みになったのではないかなと、いま感じている。

十年間、お世話になった「NPO・D」を、昨年退会したが、仲間との交流は今も続いている。

  

 

♪♯♭「牧場の朝」の本家争い?

 唱歌「牧場の朝」の作詞者が楚人冠であると判明してから「我孫子駅でそのメロディを流したら・・・」という声が起こっている。ところが現在北小金駅の下り方面列車のドアが閉じる際にこのメロディが使用されている。北小金はかつて放牧場があった場所、片や我孫子は楚人冠が住んだ処。根拠としてどちらの理屈が強い?

 

文学掲示板

 平成二十四年九月展示作品(文学の広場)

                                   

散歩する愛犬の喉を潤しぬ

   樋より滴る船戸の湧き水

                   つくし野 小林 光江

 寒風に逆毛をたてて鴨争ふ

   飛沫の中の声の激しく

                   東京荒川 近藤 楞子

 書道展観むと我孫子に友と来て

   花火の日と聞き夜を待ちをり

                   東京葛飾 斉藤 紫郎

旅人の心和ませ幾星霜

   今に生きつぐ船戸の湧水 

                      台田 坂谷 三雄

 ゆく雲の手賀沼やさし闌けまさる

   秋色うつし水面暮れ初む

                    新木 佐久間美津子

 枯葦の穂先たわめてよしきりの

   茜をまとふ落日いまを

                    つくし野 桜永 文子

 

 楚人冠俳句「序跋詩歌集」より 杉村楚人冠

                 

昭和五年夏

どこに行く兒ぞ繪日傘のうしろかげ                    

譜をめくる指先に梅雨のしめりかな       

魚籠(びく)に藻の干からびて江に風薫る

叛を謀る審議半ばを水鶏かな

六月の朝の日ざしや竹を伐る

日ざかりやたゞ一ひらのちぎれ雲

大徳の水飯をめす裸形(らぎやう)かな

雲海の脚下におこる雷くづれ

海の上に日少しあたり雷遠し 

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第107回史跡文学散歩

「牧場の朝」作詞の舞台「岩瀬牧場」を訪ねる

永い間不明だった作詞者

昭和48年6月NHK第一ラジオ放送『趣味の手帖』で、「不明な小学唱歌の作詞者・作曲・モデルになった処はどこでしょうか?」と放送され、『故郷』『牧場の朝』『春の小川』などを特に挙げた。ある会合の折に須賀川市在住の方から「旧制安積中学時代に国語の教科書で、楚人冠の書いた岩瀬牧場の情景を習ったことがあり、その時楚人冠が岩瀬牧場に来泊して文章を書き、唱歌も書いたと担任教師から聞いた」との証言があり、3カ月後の放送で「『牧場の朝』のモデルは鏡石町の岩瀬牧場らしいが、裏付け証拠が欲しい」と重ねて放送された。その後明治43年に楚人冠が岩瀬牧場を訪れた事実が判明、その他いくつかの傍証から、現在では作詞者は楚人冠であることが一般的になっている。

岩瀬牧場周辺の史跡や芭蕉に同行した曽良が「卯の花をかざしに 関の晴れ着かな」と詠んだことで有名な「白河の関」も訪れます。

 

1.   日時 9月16日(日)8時

我孫子駅北口公園前集合

2.コース 我孫子駅─岩瀬牧場─白河城─南湖公園─白河の関─我孫子駅解散(6時頃を予定)
(小雨決行)

講師・ガイド  美崎大洋氏(当会副会長)

参加費(予定)会員 3000円、 非会員 3500円

申し込み TEL&FAX (七一八四)二〇四七

      越岡まで (締め切り) 9月5日(水)

 

今後の行事予定

 

    「放談くらぶ」

日時 8月5日(日)14時〜16時
会場 アビスタ、第5会議室
講師 美崎 大洋氏(当会副会長)

演題「楚人冠『うら話』

◎参加費 会員無料 非会員300円

 

 

    プロジェクト開催予定 「歴史文化くらぶ」

日時 7月7日()14時〜16時

場所 けやきプラザ8F第1会議室

話者 我孫子地名考(3)三谷和夫(本会前会長)

参加費 200円(会員無料)先着40名

申込み・問合せ先 三谷(七一八三)一〇七七

 

当会の最近の動き(報告、予定)

飯泉喜雄顕彰碑記念行事

 5月14日(月)我孫子駅前で実施(来年は10周年)

散歩部会 

6月17日{}、第106回史跡文学散歩実施。

手賀沼部会

 6月9日(土)総会、伊藤副会長講演

「手賀沼を愛した文化人」

研修部会 

 4月8日(日)放談くらぶ「弁栄上人─沼南で生まれ、大正の法然といわれた高僧─」

その他

4月14(土)「異文化を学ぶ会」PKO派遣の南スーダンと激動のアラビアを旅して

6月23日(土)野田市川間公民館からの18人に我孫子市内を案内。我孫子駅周辺から鳥の博物館、布佐井上邸まで。

あびこ楽校協議会・・・6月8日(金)福留強氏講演会「生涯学習時代の生き方」参加 

次回役員会予定

日時 9月2日{}13時半〜16時

場所 アビスタ第4会議室

 

(入会員紹介)3月から6月の間に次の方々が入会されました。高平仁雄、田宮純子、津田好子、芹沢正子、山本幸治、野口征紘、小笹 鋭江(以上7名)

 

編集後記 総会の報告を掲載したので今回の会報は初めて8ページになりました▲新たに会員投稿欄を設けましたので日常の身の回りの出来事等なんでも投稿して下さい▼今年は壬辰(みずのえたつ、じんしん)。今まで気がつかなかったが、この二文字にそれぞれ「女」偏(へん)を付けると「妊娠」となる。成程、上野動物園のパンダも妊娠した(美崎)

 

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