講演 「高野山村の歴史と文化」

講師 三谷 和夫 氏
「高野山」の地名はコウノトリが飛来したことから「鴻ノ山」と呼んだ、また開墾地を意味する「荒野」の嘉字化として名付けられたなどの説がある。この高野山地区には市内最古最大(69m)とされる水神山古墳(船戸、
4世紀後半、前方後円墳)が存在する。この古墳は当時の卑弥呼の影響か女首長のものとされている。しかし今年、前原地区で方墳(前原古墳)が発見され、出土した土器から4世紀前半のものと推測される。それが事実なら市内最古の古墳となる。古墳のある高台は手賀沼を一望できる絶好の場所で景観も素晴らしい。高野山は我孫子地区の文化のさきがけとなった地域といえる。
高野山には香取神社があるが、この神社は天慶3年(940)藤原秀郷が創立したとの伝承がある。現在でもこの神社の氏子は対岸の岩井地区との通婚がない。岩井地区には秀郷の仇、将門を祀る将門神社があり、このような歴史的背景がその理由であろう。1684年の棟札も収められており高野山地区の鎮守が目的と思われる。
寛永8年(1631)渡辺勘右エ門家が建立したとされる一石五輪塔が最勝院墓地内にあり、これも五輪塔としては市内最古である。また万治2年(1659)の建立の庚申塔(阿弥陀種子)も市内最古の庚申塔で渡辺4家、新井3家、岡田2家の名前がみられる。
寛永年間(1661〜73)には手賀沼沿いに高野山新田が開かれ、高野山村下に千勝神社が建立され、渡船(高野山渡し)も存在した。
 現在香取神社内に百庚申があるが、これはもと成田街道の村入り口にあったもので天保〜嘉永
(1844〜52)年間に造立されたものが移設されたものである。
以上の歴史から高野山地区について考察すると
1.縄文時代・弥生時代 住民はいなかった(遺跡がみつかっていない)。
2.古墳時代(4〜8C) 現住民の先祖が移り住んだらしい。前原、水神山古墳を守りついでいる。
3.古代 香取神社(940年創立)の氏子、現住民の先祖。 1684年 18戸、1908年 28
4.生活 畑作農業、幕府・旗本相給、村高、元禄42石余、天保98石余。1660年代 高野山村下(新田)  開発、村高、天保2石余、家数5
    成田街道沿い、(1779年伊達重村通行など)
5.石造物 市内で早くから建立 1631年 一石五輪塔、1659年 庚申塔(いずれも市内最古)
  1844年〜1852年 百庚申(市内唯一)  信仰と財力が裏付けにあった。
6.旧家  渡辺、新井、岡田の3家(新井はのち荒井) これら指導層の存在とまとまりがあった。
7.その他
@手賀沼対岸の岩井とは1000年来通婚なし。
A最勝院(村内1ケ寺)、檀家は香取神社氏子と共通と思われる。新四国札所27番であり、一茶 の「七番日記」にも記述がある。
B天正20年(1592)の検地帳に「勝鹿郡 高之山御検地帳」の記述があり地名、人名が記載されている。しかし現在との関連は不明である。          

C愛宕大権現(1745荒井氏)碑のもつ意味は?
D「新井」姓が「荒井」姓へかわる時期について
1659年、1710年の時期は「新井」の文字。「荒井」は1704年、1721年、1734年、1745年、1755年の時期に見られる。1800年、1813年に一時「新井」が再び見られるが、荒井本家では1830〜44年、「荒井」の文字、1833年、1856年のものも「荒井」となっている。












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