「楚人冠の思想形成」

美崎 大洋
人間の思想形成は、幼時の生活環境やその後の社会生活から形成されると言われている。
楚人冠の思想形成の過程をたどっていくと、中学3年でストライキをやって飛び出した正義感と反骨精神をベースに、英吉利法律学校や国民英学会やユニテリアンの自由神学校を転々としながら、そこから汲み取った自由主義、インディビディアリズム、ヒューマニズムなど、いわゆる明治の文明開化思想につながる啓蒙的・進取的なものを徐々に身につけていった。こうした西洋思想を縦糸とすれば、少年時代からの読書による儒教的な倫理観、国文学からの仏教的な厭世・無常観、日本的な道徳思想、芸術観、禅などが横糸として織り込まれていく。
仏教に関しても楚人冠は当時の旧仏教界に警鐘を鳴らし、革新を迫る「新仏教運動」を展開した。日本の禅文化を海外に知らしめた仏教学者鈴木大拙とは鎌倉円覚寺で一緒に参禅した同門だった。
さらに『平民新聞』の幸徳秋水、片山潜ら社会主義者とも交友関係にあった。しかし楚人冠の社会主義は「僕の社会主義は頗る温和な漸進主義である」と本人も語っているように過激なものではなかったようで、朝日新聞に入社する頃には平民社の人たちとも疎遠になっていた。
しかし楚人冠の思想を形成する上で非常に大切なまた「原初的」なものがあった。それは何か?
ところで太平洋戦争が始まってから、米、英のことをよく知っている楚人冠の書く文章のなかには痛烈な皮肉や揶揄が混じるようになった。戦局は日に日に日本に不利となったが、軍部は正しい戦局を国民に知らせずやたらと戦意高揚を煽るという時代になっていく。また「知英・米」の人間も「親英・米」と決めつけ、折りがあれば言論弾圧の的にしようとしていた。楚人冠もその対象としての例外ではなく、連載中のアサヒグラフへの執筆をやめるように軍部から圧力を受け、已む無く筆を折ります。
実は楚人冠への言論弾圧は以前にも一度ありました。それは明治40年発行の『七花八裂』のなかの一文が原因だった。それはどんな内容だったのか?


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