井上二郎の開墾により地域の宿願成就

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3人の東京帝国大学生

明治期の布佐に3人の東京帝国大学生が揃いました。気象学者の岡田武松(明治32年理科大学物理科卒)、 柳田國男(同33年法科大学政治学科卒)、井上二郎(同33年年工科大学土木科卒)の3人で、 東京帝国大卒業後も3人の交流は続きました

開墾着手までの井上二郎

柳原水閘

井上二郎は藤代本陣横瀬家の次男として生まれ、明治30年相島新田井上家の養子となりました。 東京帝大在学中から土木工事の設計に従事し、その作品は関東各所に現存しています(松戸市の柳原水閘、日光の神橋等)。 東京帝大・大学院卒業後栃木県、陸軍、民間会社で設計や組織経営にたずさわりました。
官民の勤めの後半には、仕事の傍ら開墾用土取り場の確保、排水ポンプの設置等開墾の準備を着々と進めました。

昭和2年には一切の勤めを辞め井上家の手賀沼開墾に専心します。当時の集落の様相は耕 地面積が少なく、困窮の度合いが高まっており、二郎は1戸当りの耕地面積を増 やし年間を通じ働ける環境とすることが何としてもり遂げなければならない目標と 確信するに至りました。

井上二郎渾身の相島新田開墾

献穀田 御田植式

 大正15年に開墾計画を関係地主に示し、様々な反対がありましたが、 昭和2年には相島新田、発作新田、布佐を合わせ合計120町歩の全地主の承諾を得て壮大な開墾がはじまりました。
 新田の周りに堤防を造る築堤が最も困難な工事で、山土をいくら埋めても沈下してしまい、最大18mにも達しました。 堤防の両側は水面より1m以上も高く湖底が盛り上がってしまう始末でした。 困難を極めた工事の末昭和5年には予定の事業が完了し、1戸当りの耕地面積も大幅に増え開墾地の 地主達は大変喜びました。
 始めた時の耕地は30町歩足らず、 総戸数は100戸でしたが、完了時には 実に、面積150町歩、戸数200戸とな り、延べ面積5倍、1戸当りの耕地が2倍となり、僅か数年で集落の面目を一新する大成功を収めました。
 二郎が昭和10年の献穀田御田植えの日に述べた言葉を文章にした「真菰を稲に」が残されています。 ここには二郎が井上家に入ってからは、この開墾のため最高学府で学業を修め、開墾に役立つ実務に励み、 井上家の開墾成功を目指し自からのポテンシャルを高め、54歳の昭和2年に一気に困難な開墾に立ち向かった 心意気が認められています。この井上開墾こそがが昭和の手賀沼開拓の源をなしたといわれています。
二郎の次男井上薫は後の第一銀行頭取(みずほ銀行の前身)を勤めました。

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