手賀沼干拓の恩人−相島・井上家

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 手賀沼は、江戸時代初期まで「手賀浦」と呼ばれていましたが、 寛文11年(1671年)に利根川と遮断された事で、 手賀「浦」が手賀「沼」となりました。
 しかしその後も利根川の増水時には大量の水が流れ込み、 周辺の農民たちが開拓した水田は何度も流出する被害にあいました。
18世紀に入り、八代将軍吉宗が推進した「享保の改革」の柱の一つである  「新田開発奨励策」に応じて印旛沼や手賀沼の干拓に多くの江戸商人が進出してきました。
   尾張町(銀座6丁目)で手広く乾物問屋を営んでいた井上家の四代目佐次兵衛もその一人でした。
 手賀沼干拓に関わった井上家のおもな当主についてご紹介します。

初代 〜近江から江戸へ〜

 井上家の初代・佐次兵衛は江戸初期に近江(滋賀県)から江戸に出て、 「近江屋」の屋号で乾物問屋を営んでいました。地道な努力で信用を得て、町名主も務めるほどになりました。
 井上家当主は代々「佐次兵衛(さじべえ)」を名乗っていました。

第4代 〜手賀沼の干拓に乗り出す〜

第4代佐次兵衛・「徳栄(とくえい)」は享保13年(1728)、  幕府の呼びかけに応じて手賀沼開発に着手する決意をし、 屋敷と商人株を5000両で売り払って手賀沼畔に移住しました。
 稼業隆盛のさなかに突然商売をたたんで新天地に乗り出した 真意は不明ですが、勇気ある決断だったと思われます。
 徳栄は多額の費用と人力で干拓と水田作りに挑戦しましたが 資金難と度重なる洪水のため事業は難航しました。

第6代 〜なおも新田開発に奮闘する〜

 第6代佐次兵衛・「定秀(ていしゅう)」は25歳で家督を継ぎ、 家業の開拓事業をさらに発展させました。井上家が開拓した水田地帯は 「相島新田」と呼ばれました。
 相島新田に隣接する「三河屋新田」を買い取って耕作地を拡大し、 質屋稼ぎ(農民金融業)も軌道に乗り出しました。
定秀は同時に寺子屋を営み子弟教育にも尽力しました。

第9代 〜経営の安定期〜

第9代佐次兵衛・「主信(しゅしん)」はさらに干拓に精を出し、農業収入に加えて、金融業、 漁労、油絞り業、鳥猟などの経営も順調に推移しました。  年間約100両の収益をあげるほどの安定した経営状況となり、 享保年間からの佐次兵衛家の連綿とした経営努力で、家政はようやく安定期を迎えるに到りました。

第12代 〜近代工法で干拓の完成へ〜

昭和に入り、長年に及ぶ干拓事業を完成へ導き、農地の飛躍的拡大をもたらしたのが第12代当主、井上二郎です。 このサイトでは、その事業と、井上二郎とともに発展した相島・井上家邸宅をご紹介しています。


相島・井上家の系譜

 歴代  名前  幼名  没年  享年
 初代  佐次兵衛(さじべい)    1668  
 2代  喜右衛門(きえもん)    1713  
 3代  喜右衛門(きえもん)    1737  
 4代  徳栄(とくえい)    1779  91歳
 5代  良忠(よしただ)    1809  79歳
 6代  定秀(ていしゅう)    1834  69歳
 7代  良定(よしさだ)  仙之助  1832  40歳
 8代  友恒(ともつね)  春次郎  1843  25歳
 9代  主信(しゅしん)  綱次郎  1880  59歳
 10代  章房(あきふさ)  佐平治  1901  66歳
 11代  擇(えらぶ)    1898  43歳
 12代  二郎(じろう)    1941  68歳
 13代  武(たけし)      79歳
 14代  基(はじめ)−現当主−      

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