第31会記念文化講演会(予告)
「回想 わが敬慕の師ー志賀直哉」
守りながら新たな文化の創造を
講師 三ツ木照夫氏(志賀直哉最後の弟子)
■ 日時 5月23日(日)午後2時~4時
■ 会場 アビスタ・ミニホール
■ 共催 我孫子市教育委員会
我孫子の文化を守る会
■ 入場料 会員無料、 非会員300円
(講師略歴、紹介と講演内容)
昭和12年(1937)横浜に生まれる。昭和35年日本大学文学部国文学科卒。昭和36年、日本大学大学院在学中、論文作成のため渋谷・常盤松に志賀直哉を訪ね知遇を得、以来その謦咳に接すること十余年、晩年の志賀直哉に最も親しく接した一人として志賀の人と生活に傾注した。永年高校の国語教師として奉職の傍ら志賀直哉研究に従事した。著書に『「晩年の志賀直哉」―わが敬慕の師―』 (新生社)など(写真は志賀直哉(右)と写真に収まる若き日の三ツ木氏)
三ツ木照夫氏は昭和36年7月初め、大学院修士課程の卒論を書くために渋谷常磐松に78歳の志賀直哉を訪ねました。それ以来志賀直哉が亡くなるまでの10年余り、足繁く志賀家に出入りし、大変厳しい教導を受けつつ、志賀直哉の人と生活に傾倒します。既に第一線を退いていて怖い存在ではなく寛大になっていた志賀に三ツ木氏は体当たりでぶつかり、そんな三ツ木氏に対して志賀も快くまた慈愛に満ちた表情で向き合ったといいます。
三ツ木氏は志賀の全作品を通読したのは勿論、原稿に書き写して勉強したほか、志賀直哉の声を録音したテープを旅行に持参し、旅館の夕食時などに「師と共に居る思い」になって声を聞き食事をするほどの心酔ぶりでした。
志賀直哉作品「焚火」は赤城山・大沼湖畔の雄大な自然に遊ぶ一日を、透明感あふれる簡潔な文章でつづった短編小説だが、最初の部分を赤城山で、続きを我孫子で書いたと志賀自身が回想している。昭和45(1970)年、移築された赤城神社社殿の近くに「焚火」の文学碑が建てられた。この除幕式に志賀門下生だった三ツ木氏も出席。文学碑嫌いの志賀直哉も良い思い出ばかりだった赤城山での文学碑建立を許したのかも知れません。
講演当日は①近代日本文学史上に残された志賀直哉の業績評価②7年半に亘る我孫子在住が志賀作品に与えた影響③我孫子の生活を志賀直哉はどう思っていたか、などについてお話を頂くほか「人間・志賀直哉」について語って頂きたいと思っています。
平成23年度総会のお知らせ
上記講演会に先立ち、同日(5月22日)午後12時30分から同じ会場で平成二十三年度の総会を開催します。今年度の活動を決める重要な場です。
多くの会員の方の参加を期待します。
平成二十三年度事業計画(案)
- 総会、文化講演会(五月二十二日)
- 史跡文学散歩(六、九、十一、三月予定)
- 放談くらぶ(偶数月第1日曜午後)
- 文学の広場掲示板への短歌6首掲示(年3回、 1ヶ月間)
- 「美しい手賀沼を愛する市民連合会」への参加と 手賀沼ふれあい清掃参加
- 飯泉喜雄顕彰碑の紹介・宣伝
- 我孫子市の文化財発掘・保護の推進(井上家保存 活動の検討)
- 史跡文学散歩案内役後継者養成、記録作成
- 小中学生を対象とした郷土文化の啓発活動
- 文化活動関係団体との連携協力
- プロジェクト活動の活性化
- 会員の文化活動の交流推進と新会員の勧誘
- その他役員会で承認した事業
「川瀬巴水木版画展」中止となりました
3月18日(金)から23日(木)の期間、我孫子市民プラザ・ギャラリーで開催される予定だった「川瀬巴水木版画展」は東日本震災の関係で会場が使用できなくなったため急遽中止となりました。
今回予定されていた「版画展」は『夕ぐれ巴水』の著者としても知られる「リンボウ先生」こと作家の林望氏の講演や江戸木版画摺師による木版画摺りの実演、さらに当会の三谷氏、越岡氏の講演など内容が充実し、同種の展覧会と比べてもかなりユニークなものであっただけに大変残念な結果となりました。
今回の主催者および関係者は年内に同様の内容で再度実施を計画したい旨発表しています。その際は我孫子の文化を守る会でも今回同様、中心的立場で協力したいと考えています。
なお今回の中止に伴うチケットの払い戻しについては全面的に応じることになっていますので前売券をお持ちの方は早急にお申し出ください。
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楫西雄介さんを偲ぶ
昨年十二月七日、当会の元幹事 楫西雄介さんが急逝された。
神戸の灘中学で楫西さんと同級生であったS氏から訃報を知らされたとき、冗談じゃないの?と茶化したが、本当だと知って、驚きと悲しみがどっと押し寄せた。亡くなる少し前、アビスタで何かの講演会で顔を合わせ、昼食を共にしたときは、いつもの鋭い評論調で話題をさらっていたばかりなのに。未だに信じられない!ナップザックを背負い黒い毛糸の帽子を被った人の後ろ姿を街で見かけると、もしかして楫西さんでは?と胸騒ぎすることがある。
楫西さんは私にとって郷土史の恩師であり、わが心の師である。こうして私が当会の副会長を務め、多くの会員の方々と親交を結べるに至ったのも楫西さんのお陰である。そもそも、私を当会に誘ってくれたのが、楫西さんなのである。思い起こせば、今から六年前の平成十七年、化学系のある学会で懇意にしていたO氏と我孫子ゆかりの偉人の話に及んだとき、「きみ、我孫子といえば、面白い男がいるから紹介するよ」と引き合わせてきれた件(くだん)の男こそ、その楫西さんであった。O氏は「百パーセント彼の言うことを信用する必要はないが、とにかく傾聴には値するよ」と付け加えた。
爾来、機会ある毎に楫西さんの講話を拝聴した。その頃、「葭の塾」と称して、我孫子ゆかりの偉人についての楫西さんの講話が始められ、三年間に亘って、合計二十一回にも及んだ。理系のデジタル的発想しかできない私には、彼独特の読書術に基づく解釈と仮説の設定、その実証のための精力的な情報の集め方は驚きの連続であり、ついつい吸い付けられた。就中、嘉納治五郎についての研究はまさに「情熱迸(ほとばし)る」とはこのことかと思い知らされた。彼はそれに飽き足らず、市の生涯学習出前講座に「嘉納治五郎をもっと知ろう」を登録し、さらに自らのブログを開設し、ゆかりの偉人についての記事を次々に発表した。それを見てビックリしたのは、投稿時間が午前〇時から午前三時にかけてのものが多く、彼の並々ならぬ意気込みを感じたものであった。このブログも嘉納治五郎から始まり、白樺派の文人や柳田國男、棟方志功にまで及んだが、昨年十月に再び嘉納治五郎に帰り、満ち足りてそれを終えた。
年が明けた今年の一月二十二日前後の一週間、私は夕方になると毎日けやきプラザの十一階から西の彼方を向き、夕日が富士山の頂上に沈まんとする風景を眺めて胸を熱くした。いわゆるダイヤモンド富士が見えるのがこの時期であることを教えてくれたのも楫西さんであった。そういうロマンチックな面も併せ持った彼であった。
冬晴れの 夕日背負ひし 黒き富士
共に眺めし 友よ今いずこ 合掌
プロジェクト活動報告
「百人一首を楽しむ会」
我孫子の文化とは直接関係ないプロジェクト名であるが、本プロジェクトの趣旨は広い意味での文化を楽しむということで、百人一首を単に競技、ゲームとして楽しむだけでなく、歌成立の歴史的背景、歌人(作者)について勉強し歌を深く理解しようとするもの。
その内容は「100首をおぼえる(記憶する)」「上の句の一部を聞き下の句を(即座に)連想する」「100首の成立の背景と関連する当時の歴史を勉強する」「地方独特の百人一首の遊び方、楽しみ方を調査・研究する」「および上記に関係する雑学」などである。
今年の2月まで全部で21回開催した。
ここでは直近の会での内容について報告したい
(1月の歌)
かささぎの 渡せる橋におく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける (大伴家持 006)
(宮中の御階におりている真っ白な霜を見ると、もう夜も更けたのだと感じられる)
中国の伝説では、七夕の夜、牽牛と織女の、年に一度の逢瀬を守る為に、かささぎがその翼を広げ天の川に橋をかけるのだという。
カササギ(鵲)は、スズメ目カラス科に分類される鳥類の一種。別名カチガラスもしくはコウライガラスとも呼ぶ。中国語では「喜鵲」と表記。佐賀県の天然記念物に指定され、現在は同県の県鳥にもなっている。日本では佐賀県や福岡県といった有明海を取り囲む平野部を中心に生息していたが、近年は糸島市や福岡市西部にも分布を広げている。また、北海道・長崎県・熊本県・大分県の一部地域でも少数が生息しており、徐々に生息域が広がっている。
(歌の背景と家持の心境)
家持の祖父・父はともに主上に寵遇され大納言まで出世したが、家持は謀反事件に連座して官位を解かれ、京外に追放された。今や大伴家は冬の時代。
かささぎの橋は霜に凍りつき渡れないように、私は中納言で終わり。私の人生は闇の中であるよな。私の姿はまるでかささぎのようだ。悪人(全身まっ黒)と思われているが、本当は無実なのに(腹は白い)・・・。
今月の雑学
小正月・・・小正月とは、正月の望の日(満月の日、旧暦1月15日)のこと。現在は新暦1月15日に行われる場合もある。元日を大正月と呼ぶのに対してこのように呼ぶ。中国式の太陰太陽暦が導入される以前、望の日を月初としていたことの名残り。なお、この小正月までが本来の松の内であり、近畿地方では現在でも1月15日の小正月までが「松の内」である。
この日の朝には小豆粥を食べる習慣があった。古くは『土佐日記』や『枕草子』などにも、小正月に小豆粥を食べたことが記されている。現在でも東北の農村などに小豆粥を食べる習慣が残っている地域がある。これらの地域では、元日から小正月の期間中に小豆(あるいは、獣肉を含む赤い色をした食品全般)を食することが禁忌とされている場合が多い。年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、小正月は豊作祈願などの農業に関連した行事や家庭的な行事が中心となる。本来は人日(七日)まで竈を休ませるはずの松の内に、忙しく働いた主婦をねぎらう意味で、女正月という地方もある。
(2月の歌)
嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな (西行法師 086)
(「嘆け」と言って、月が私を物思いにふけらせようとするのだろうか?いや、そうではない。(恋の悩みだというのに)月のせいだとばかりに流れる私の涙なのだよ)
西行には「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)」という有名な歌があり、この歌のとおり文治6年2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。享年73歳。2月に桜の花は不自然だが、これは陰暦の2月で太陽暦に直して計算すると、1190年3月23日になる。同じような例で赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは、元禄15年12月15日(14日が一般的だが日が変わっている)の寅の上刻とされている。今の暦では1703年1月31日の午前4時ごろになるので、1年で最も寒い時期のしかももっとも寒い時間帯ということになる。
今月の雑学
如月(きさらぎ)の語源は、諸説ある。
①暖かくなったとはいうものの、それゆえに感じるうすら寒さのために、更に衣(きぬ)を着るという 意味から生まれた「衣更着」説。②陽気が発達する季節なので「気更来」または「息更来」という説。③草木の芽が張り出す月なので「草木張り月」説。④田を鋤き畑を打つところから「鋤凌(すきさらぎ)」説。⑤植物が芽生える「萌揺月(きさゆらぎづき)」説。⑥芽生えた木に降り注ぐこれからの雨は「木の芽張る雨」説。
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ノスタルジアの音楽 倉田 茂
ノスタルジアは二十世紀に至り見事に俗化した。俗化は旅行会社やファッション界の企画にあふれ、ディズニーランドにおいて極まったといわれる。
そのとおりだろう。しかしサバ(伊)の詩やフォスター(米)の曲からは、現在にも生きつづける深い懐かしさがきこえる。なぜなのか?
ノスタルジアないしノスタルジー(仏語)はギリシャ語の「帰ること」と「痛み」の複合語。もともとはスイスに始まる医学用語(郷愁病)で、のちに一般化する。
起源の事情や道筋はどうだったのか。二十一世紀の只今、ノスタルジアの新鮮な居場所はないのか。
それを音楽のなかにーバロックから古典派、ロマン派、二十世紀音楽に至る作曲家、演奏家の思想や姿勢のなかに探ってみたいと、ずっと思ってきた。
彼らこそじつは、それぞれの時代にノスタルジアの再生と再出発に心血を注いでいたのではなかったか、と。
ここに抜粋して聴く主なものは次のとおり。
世界の民謡から「ボヘミアの森深く」(独)「故郷の人びと」(米)。ヴィヴァルディ『バスーン協奏曲ホ短調』。シューベルト『冬の旅』から「おやすみ」「菩提樹」「ライアー回し」。ショパン「ポロネーズ13変イ長調」「幻想即興曲嬰ハ短調」「ワルツ19イ短調」「マズルカ45イ短調」。プーランク『ヴァイオリン・ソナタ』。
演奏家はヘルマン・プライ、フィッシャー=ディースカウ(ともに独、バリトン)、アンヌ・ケフェレック(仏、ピアノ)、五嶋みどり(ヴァイオリン)たち。
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「明治女医2名を輩出した岩手県金ヶ崎町 (武家屋敷群)の文化的背景について 」 福嶋 正和
岩手県南西部に金ヶ崎町という人口一万六千の町がある。そこには東西690m、南北980mの小さな武家屋敷群が江戸時代の情緒を残して現存しておる。明治後期にそこから明治女医が2名輩出したことを知り、その背景に地域的かつ時代的因があったのではないかと考え、調査した。(明治45年間に全国にも明治女医の輩出は239名にしか過ぎない)
相沢ミサホは牧師の家庭に出生し、キリスト教の影響下で生育し、明治39年にフィラデルフィア女子医大に留学、同医大を明治43年に卒業し帰国、日赤福岡県診療所で21年に亘って献身的に医療活動に専心した。しかし、戦時下には東京に転居、空襲のため故郷岩手県に疎開するなど、晩年は医療に不完全燃焼のまま昭和44年に他界した(享年84歳)。
志賀ミエは貧乏士族の家庭(江戸時代に伊達家の藩医となった家柄)に出生し、父親の期待に反して兄が法律家になったことから「医者になれ」との兄の勧めもあり、東京の医学校で苦学を重ね医術開業試験に3回失敗するも明治44年に合格し医師登録された。大正元年に宇都宮にて医院開業し、深夜の往診も厭わず患者の信頼を得て門前市をなしたという。昭和48年に他界(享年94歳)。
明治女医2名を輩出した時代的要因として
地域的要因として
藩政時代からの教育風土
キリスト教普及
岩手県南西部での偉人輩出等から考察した。しかし、最も明らかな要因として2名に共通しているのは、執念とも思える父親の教育への情熱であり、このような父親を育てた主因は戊辰戦争での敗北による薩長新政府への負けじ魂・意地が脈々と流れていたからではないだろうか。
文学掲示板
平成23年5月展示作品(文学の広場)
並び立つ背高きポプラの沼の面に
映りし時を懐かしみおり
つくし野 岩崎 孝次
沼わたる東風を孕みし小波に
夕陽またたき仄かに梅ヶ香
松戸 蛯澤 恵子
冬枯れの寂色のなか沼の面に
浮く水鳥は艶増してをり
我孫子 海老原恵美子
梅雨晴れの暑き真昼に光りゐて
大輪向日葵左に傾く
松戸 大塚 玲子
楽しげに語り合う友ふと黙す
静寂の一瞬沈む手賀の陽
湖北台 大森 澄夫
桜舞う吾子の手を引き去年も来た
手賀の小径よ孫と来るまで
栄 大屋 繁
楚人冠五句「序跋詩歌集」より 杉村楚人冠
─昭和五年以前─
花に渡す橋を渡月橋と申しけり
花を餘所にたらふく飲うで来つるよな
初午やふけて狐の小ざかもり
手すさびや落ち散る藤の小半丁
長女がみまかりし冬の春上巳の節句に、去年までは雛祭も
行ひたりけるを、今年はそれも叶はずと、祖母上の嘆かせ玉ひて、せめてもの心やりにと、雪洞(ぼんぼり)を佛壇に供へられけるを見て
ぼんぼりを御燈明(みあかし)に喪の雛まつり
Page TOPへ戻る第102回史跡文学散歩
「我孫子駅周辺に残る志賀直哉ゆかりの地」
今年度は志賀直哉ゆかりの地を中心に訪ねる史跡散歩を企画しました。第一回目として我孫子駅周辺に残るエピソードをいくつか紹介します。
1.日時 6月12日(日)9時、我孫子駅南口集合
2.コース 石橋製糸工場跡─回春堂跡─陸前浜街道踏切─第一小学校─滝井孝作旧居─子の神大黒天延寿院─里見弴別荘跡─志賀直哉旧居─三樹荘─香取神社─我孫子駅 (小雨決行)
講師・ガイド 越岡禮子氏(当会副会長)
参加費 会員 無料、 非会員 500円
申し込み TEL&FAX (七一八四)二〇四七
越岡まで (締め切り) 6月5日(日)
今後の行事予定
□ 「放談くらぶ」
日時 4月3日(日)14時~16時
会場 アビスタ、第3会議室(定員25人)
講師 倉田 茂氏(当会会員、日本ペンクラブ会員)
演題「ノスタルジアの音楽」 ヴィヴァルディからプーランクまで、中心はショパンとシューベルトを聴きながら 読書体験も含めて、体験や考えたことを語ります。◎参加費 会員無料 非会員三〇〇円
日時 6月5日(日)14時~16時
会場 未定
講師 福嶋正和氏(当会会員)
演題「明治女医2名を輩出した岩手県金ヶ崎町(武家屋敷群)の文化的背景について」
□ プロジェクト開催予定
「歴史文化くらぶ」(旧名 我孫子の歴史と文化を楽しむ会)
今年度から奇数月の第一日曜に変更。
テーマ 平将門のうた─自作の和歌を古代文字で書き、伊勢神宮に奉納─
日時 5月7日(日)14時~16時
場所 東高野山自治会館(天王台駅歩8分)
話者 三谷和夫氏(本会前会長)
参加費 200円(会員無料)先着20名(4月30日迄)
申込み・問合せ先 三谷(七一八三)一〇七七
「関東の建築探訪」
日時 4月21日(木)(3月30日(水)に予定していましたが東日本震災のために延期しました)
場所 野田高梨家美術館など
申込み・問合せ先 吉田(七一八三)七三七九
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当会の最近の動き(報告、予定)
散歩部会
3月27日予定していた第101回史跡文学散歩「旧湖北村の歴史を訪ねて|中里、中峠を歩く」は東日本震災の関係で中止としました。
当日は中止の連絡が届かなかった参加者2名のため田中由紀氏が予定コースを案内しました。
手賀沼部会(予定)
「美手連」総会、 5月29日(日)13時より
講演 青木直芳氏(昆虫研究家)
「昆虫の目から見た岡発戸の自然」
研修部会
2月6日(日)放談くらぶ「相島芸術文化村への想い」は講師が体調不良のため急遽、三谷、藤井、菅野の3氏が「井上家」に関するテーマで講演しました。◎雑誌『白樺』創刊百周年企画展記念講演会
日時 4月21日(木)14時~15時30分
会場 アビスタ2Fミニホール
講師 村上智雅子氏(当会役員)
「志賀直哉と我孫子」─作品・家族・地域の人々とのかかわり─
参加費 300円、大・高生200円、中学生以下100円 先着70名(要予約)
申込み 白樺文学館(七一六九)八四六八
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