我孫子の文化

平成24年1月1日 我孫子の文化を守る会

 

Top pageへ

会長 藤井 吉彌

昨年は東北大震災、福島原発事故により、我が国は終戦以来の災害に見舞われ、国全体が閉塞感に覆われた年でした。我孫子でも一部の地域で液状化が発生し、また放射線量の高い地域が散見され、災害による自粛ムードの中で川瀬巴水木版画展覧会が延期になりました。

幸い、会員の方には被災者はおられず、会としては例年通りの活動を行いました。活動のテーマの背景として志賀直哉を取り上げ、文化講演会では「最後の弟子」といわれる三ツ木照夫氏をお迎えし、晩年の直哉の人となりを語って頂き、新たな直哉像を知ることが出来ました。また史跡文学散歩では三河台、青山を訪ね志賀作品の背景を知ることが出来ましした。

「放談くらぶ」では相島芸術文化村への想い、ノスタルジアの音楽、明治期の先進的な女医について、平家物語、世界240ヶ国を旅して(人形で語る世界の文化)、橋本玉蘭斎(貞秀)などをテーマにそれぞれ講師の皆さんに語っていただき幅広い文化に接することが出来ました。

「プロジェクト活動」も着実に進展し、三十周年記念誌上に活動状を報告しております。

三十周年記念誌は書店で一般販売したところ、一般紙、地域新聞紙などの報道もあり、予想を上回る売れ行きで、地域に根付いた活動に多くの方が関心をお持ちであるという状況が良く分かりました。

市民活動フェアでは血脇守之助を取り上げ、会場での説明会では野口英世との関わりに多くの聴衆の関心を集めました。埋もれた我孫子の先達とその業績を市民に紹介する活動をこれからも地道に行ってゆきたいと思います。

冒頭で述べた展覧会が、市の財団法人主催、市民団体有志による協力で昨年十一月に川瀬巴水木版画展として開催されました。潟jフティ(ギャラリーヌーベル)鈴木社長の強力なリーダーシップの元に多くの市民団体が集まり、展覧会期間中の会場整理や受け付け等に当たりました。我々もこの会に参画し、文化活動を実施してゆく様々な側面を学ぶことが出来ました。

今年は「閉塞感」をぶっ飛ばし、皆さんとともにこれが文化だと思う活動を思い切り展開しましょう。

 

川瀬巴水木版画展 好評裡に終了

 

11月25日から12月4日の期間で開催された「川瀬巴水木版画展」が好評のうちに終了した。

これほど大きな展覧会は我孫子では初めてということもあり、来場者は展示された作品の多さに驚くとともにそれぞれの作品の緻密さ、繊細さ、色の美しさや絵師・彫師・摺師の同作業で作り上げた江戸版画の素晴らしさに感嘆の声を上げていた。期間中には当会の三谷氏、越岡氏のミニ講演(トークショー)もあり、展覧会として内容が濃密であったばかりでなく浮世絵という絵画を多面的に見つめることができる多くの仕掛けが用意されていた。当会では役員が実行委員会のメンバーとして中心的な役割を果たしたほか、多くの会員が期間中会場係などで協力、展覧会を支援した。

入場者は約2500人と主催者側が期待した数字には足りなかったようだが、一方ではこれが我孫子の現実と指摘する声もあった。(写真は林望氏(後列左から4人目)を囲む実行委員会のメンバー)

 

 

 

 

 

 

 

 

プロジェクト活動報告 

 

小中学生に対する教育・啓発活動


 「わんぱくスクール」史跡めぐり

伊藤 一男

 かねてより子ども会育成協議会(会長・梅谷三恵氏)から当プロジェクトに対し、市内の小学生からなる「わんぱくスクール」史跡めぐりのガイドの要請があり、去年の10月8日午前、越岡禮子副会長が主ガイドを務め、飯高美和子幹事と伊藤一男副会長が随伴して、我孫子駅前から親水広場までの史跡を訪ねて散策した。
 参加者は小学生18人とそのお母さんたち5人、それに会のスタッフ5人の総勢28人。9時に駅南口のけやきプラザ広場に集合して、いざ出発。秋の風も爽やかであった。
 まず、明治の中頃、私財を投げ打って駅を誘致し、町の発展に功績のあった飯泉喜雄の顕彰碑を見学したあと、今はイトーヨーカドーが建っているが、かつては山一林組生糸工場があり、女子従業員が三百人も働いていたとの説明に、子どもたちは目を丸くしてびっくりしていた。次に国道356を渡り、我孫子宿本陣跡を横目で見ながら、野口英世を物心両面から支え続けた
ことでも知られる歯科教育家の血脇守之助生誕地を見学し、次いで柔道家・教育家の嘉納治五郎別荘跡へ。眼下に広がる手賀沼の眺めを楽しんだあと、ハケの道を歩いて志賀直哉邸跡を見学。直哉はここで『城の崎にて』や『小僧の神様』を書いたのですよ、との説明にうなずいている子どももいた。旧村川別荘脇の坂道を上り、小さなチョウ園を楽しんだあと、子の神大黒天へ。ここは源頼朝も参拝して足腰の病を治したと伝わるお寺で、今でも山伏姿のお坊さんが素足で火を渡る儀式が行われるとの説明に、子どもたちは興味深く聴いていた。
 ガイドはここで終え、子どもたちは旧村川別荘を経て、親水広場に向かった。
 参加した子どもたちにとって、このような史跡めぐりは郷土愛を育むための絶好の実地教育の場であり、またこれらを通じて我孫子ゆかりの偉人についての話が子どもたちの進路決定に少しでも役立つことになれば望外の幸である。日本の将来を担う子どもたちのために、当会の教育・啓発活動プロジェクトは今後も最重点の一つに位置づけたい。
(写真は飯泉喜雄顕彰碑の前で説明する越岡さん)

 page topへ

 

 

関東の建築巡り(第九回)

川崎市日本民家園を訪ねる

                       藤井 吉彌

平成23年10月に日本民家園を6人で尋ねました。当園は江戸期の民家を東北から鹿児島にかけ幅広く集め二十棟が園内に移築されています。いずれも重要文化財、県、市指定の文化財となっており、民家に興味のある方には垂涎の実物展示となっています。

各住宅の屋根を取り上げても、瓦、茅葺、石置きの板葺などがあり、形は寄棟、入母屋、切妻、合掌造りなど地域の地形、気象条件に対応した工夫が随所に見られました。山形県から移築した工藤家住宅は茅葺ながら妻入りの玄関屋根はハッポウと呼ぶ高窓を設け、豪華さを演出していました。北村家住宅は解体時に貞享三年(1687)墨書き発見された園内で一番古い貴重な民家との説明を受けました。南面が日差し避けのため屋根を床から2m位の高さまで葺き下げ、竹すのこの床を使うなど地域の条件に合わせたつくりとなっていました。

昼食後岡本太郎美術館を見学し、「芸術は爆発だ」という言葉の作品を鑑賞し帰途につきました。       

 

 

 

 

 

 

 

第104回史跡文学散歩(報告)
赤坂・青山に遠ざかる時代を偲ぶ」に参加して 

                土屋 讓

私は、前回「志賀直哉の青春の地と終焉の地を訪ねる」に参加したおり、知識豊富で明快な説明をされたバイタリティあふれる越岡さんのファンになり今回も参加させて頂きました。心配した前夜の雨もすっかり上がり、文学散歩にはうってつけの朝、我孫子の駅に集合。参加者19名。最初の目的地乃木神社と乃木邸へ向かった。乃木神社は、明治の元勲乃木希典とその妻静子を配祀した所である。

宝物殿で拝観した乃木大将の遺言状には妻静子は残すつもりであるとしたためられていた。だが静子は同行した。旅順を落とすために伊勢神宮に詣で、二人の子供のみならず自分ら夫婦の命まで捧げることを誓った静子のことを思えば彼女が夫と死をともにしたことは少しの不思議も無いと私は思った。

次に乃木大将が明治天皇に殉死した部屋が今も残る明治35年改築の屋敷を見学。残念ながら今回の大地震の為、自刎した部屋を見ることはかなわなかったが、ステッセル将軍から贈られた馬を飼育した、隣接するレンガ造りの厩や、辻占売り少年の像を見学した。乃木大将の心優しい話は、辻占売り少年の他、ステッセル将軍が死刑の判決を受け獄舎に居たとき特赦になる手助けをしたり、その後生活に窮したおり、名前を伏せてお金を送った等沢山ある。私達が子供の頃、良く聞かされた本当の武士道を持って生き抜いた明治の元勲乃木希典の話に久しぶりで接して何か忘れかけていた日本人の心に触れたような一時でした。

少し早い昼食を食べて青山霊園に向かった。

青山霊園は明治7年美濃国郡上藩の藩主青山家の下屋敷を墓地にしたもので、当初は神葬祭墓地であったが、明治七年市民のための公共墓地となった。敷地面積は7万9千坪。ここには明治以降の著名な政治家・思想家・実業家・軍人・学者・文人・芸能人など、 現在12万人が埋葬されている。又私の友人で作家の田中光二の父「オリンポスの果実」の作者田中英光も埋葬されていると聞いていたが残念ながら今回確認は出来なかった。

見学した主な墓は、作家の尾崎紅葉、岡本綺堂、志賀直哉、中勘助、長与善郎など。また歌人では斉藤茂吉、落合直文など。軍人の乃木希典、有村次左衛門など。政治家では井上準之助、浜口雄幸、小村寿太郎、大久保利通、森有礼、池田勇人、大鳥圭介、松岡洋右など。その他忠犬ハチ公で有名な学者の上野英三郎、歌舞伎役者の中村吉右衛門や実業家御木本幸吉などでした。

残念なのは、吉田茂の墓が移設されて見ることができなかったことでした。

次に訪ねたのは曹洞宗 大本山永平寺東京別院の長谷寺(ちょうこくじ)です。本尊の十一面観音は、昭和59年に再建されたものですが三丈三尺(約10m)もありその大きさに圧倒されました。その後付属のお墓で坂本九、榎本健一、盛田昭夫の墓碑を見学し散策終了。

今回も、越岡禮子さんの綿密な下調べと詳細な説明で都会の中にもこんなに魅力ある場所や史跡があることを知った一日でした。

ありがとうございました。次回も是非参加したいと思っています!

 

(感想文)史跡文学散歩に参加して

堤竹 孝光

11月20日9時我孫子駅改札口に集まったのは19名。副会長越岡さんのご案内の下、千代田線に乗り乃木坂駅下車。気にしていた天気もすっかり晴れて11月とは思えない暖かな日に恵まれました。

最初は乃木神社へ。祭神は乃木希典大将。宝物館には妻静子あての長文の遺書がありました。境内ではたまたま古式ゆかしい結婚式の行列に出会うというハプニングも。乃木神社に隣接する乃木邸には旧居とレンガ造りの馬屋も保存されています。

次に参加者全員で歓談しながらの昼食をとってから青山霊園に行きました。ここには明治以降の著名な政治家・思想家・軍人などの墓が多数あります。乃木希典、尾崎紅葉、志賀直哉、中勘助、池田勇人などなど。忠犬ハチ公の碑までありました。

続いて曹洞宗の大本山永平寺別院長谷寺へ。ここでは十一面観音の巨大さ(約10m)に圧倒されるとともに慈悲深いお顔に救われる思いになりました。山門の左手には墓域があり、喜劇俳優の榎本健一、歌手の坂本九(「上を向いて歩こう」昭和39年日本人初のゴールドディスク受賞)などのお墓がありました。

ここで午後3時頃になり、解散。ここから千代田線表参道駅まではおよそ1kmの距離。

このたびの散歩は明治・大正・昭和を偲ぶ魅力的なものとなりました。

ご案内頂いた越岡さんに改めて感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

杉山英と千葉教育のあけぼの 

大井 正義

明治政府は明治四(1871)年七月に廃藩置県を発布すると,房総は木更津県、印旛県、新治県になり、その後明治六年に木更津県と印旛県が合併して千葉県が誕生した。続いて明治八年に新治県は千葉県と茨城県に分割されて今日の千葉県が誕生したので、この混乱は当時の苦悩する時代を表しているといえよう。

併せて明治五年八月に学制を発布したので、印旛県令河瀬秀治は寺子屋を廃止して小学校の新設を宣言した。その頃の流山は印旛県の県庁所在地であったので、流山の常与寺に教員伝習所である印旛官員共立学舎を開設した。ここには県内各地から試験に合格した第一回伝習員9人が十一月に入学し、60日間学んで小学校の教員になった。

 我孫子からは杉山英、英泰助、大井惣右衛門の3人が学んだ(飯田伊右衛門をくわえた4人説もある)。こうして我孫子小学校は明治六年二月十日に、当時は我孫子宿にあった延寿院を校舎として開校した。

印旛官員共立学舎は千葉県の誕生とともに流山から千葉に移り、名称は千葉師範学校になったので、杉山等により我孫子小学校が開校したことは千葉県の近代教育の曙を告げるものであった。

しかし、大井は我孫子小学校勤務から早くも九月には根戸分校に転勤になり、十二月には青山分校に勤務替えになったので混乱のなかの開校であった。同時にその事は苦労の始まりであった。そのことを杉山の免許状の取得でみる。授業は仮免許状で、授業生という身分で教壇に立ったが、初等免許状を取得したのは明治十四年十二月であった。この免許状には明治二十年五月までの期限が記載されていたので、身分が保障された訓導になれる中等免許状を取得したのは明治十九年六月であったので、教えながら学ぶ厳しい生活であった。

page topへ 

 

 

第105回史跡文学散歩のお知らせ

「志賀、大町、芥川が訪ねた布施街道を歩く」

 

布施弁天は関東三弁天として知られています。近くの七里の渡しは一茶や長谷川伸の作品の舞台にもなっています。志賀直哉、大町桂月、芥川龍之介など文豪も布施弁天を詣でています。

それら文豪の隠れたエピソードを添えて布施の街を案内します。曙山から弁天に通じる松林の参道や山門は、幕末の浮世絵師、橋本貞秀が『利根川図志』に描いています。

三月の末の頃、ひょっとすると曙山の桜がちらほら咲いているかも?

1.日時 3月31日(土)9時(小雨決行)

我孫子駅北口広場集合(バスを利用します)

2.コース 善照寺─坂巻純子生家─旅籠橋本屋─南龍寺─曙山(一茶句碑)─布施弁天など
講師・ガイド  越岡禮子氏(当会副会長)

参加費  会員 無料、 非会員 500円

申し込み TEL&FAX (7184)2047

      越岡まで (締め切り) 3月24日(土)

 

文学掲示板

 平成二十四年一月展示作品(文学の広場)

 

初日の出手賀沼(てが)の水面をかがやすを

親子三代昇りくるみる

                    白山 金子美代能

 永年の汚染一位を脱したる

   手賀沼はや三度めの春

                東我孫子 川上 進也

 手賀沼の葦原分けて鳴く鳥の

   声きく岸辺八重桜花

                   布佐 川越 淳子

底深く尺余の汚泥潜ませて

   静もり暮るる冬の手賀沼 

                      根戸 川村 一夫

 そのかみの水面は常にこの色か

   青空さながら今日の手賀沼

                    柏 北岡 博子

 手賀沼の岸辺に立てるポプラの木

   仰ぎ見てわれ去り難かりし

                      白山 木村 うめ

 

楚人冠俳句「序跋詩歌集」より 杉村楚人冠              

昭和五年 

 新年

 

貧に處して初夢に入る生飯(さんば)かな

生飯・・・禅僧が食事を行う場合、これから食べる食事の一部を予め取り置いて、一切衆生に施す、一種の布施行。さんばん。 

                       

   友なる科学者を嘲りて

分秒に恵方を刻む君なれや       

 

 春

 

何事の提灯つゞく夜半の春

 

踏青(とうせい)とゝと飛び立つ小鳥あり

踏青・・・春の青草を踏んで遊ぶこと。春の野遊び。

 

のどけさや投げだす足に日のあたる

 

早蕨の青きをめづる丹塗箸(にぬりばし)

 

春の夜を肱枕どち語りけり

 

見はるかす大寺の甍(いらか)のかげろへり

  page topへ

 

今後の行事予定

 

    「放談くらぶ」

日時 2月5日(日)14時〜16時
会場 アビスタ第5学習室

講師 大井 正義氏(当会会員)

演題「杉山英と千葉教育のあけぼの」
 ◎参加費 会員無料 

 

    プロジェクト開催予定

「歴史文化くらぶ」

日時 1月7日()14時〜16時

場所 東高野山自治会館(天王台駅歩8分)

話者 美崎大洋(本会副会長)

演題 楚人冠その人となり

─杉村楚人冠の知られざるエピソード─

参加費 200円(会員無料)先着20名

申込み・問合せ先 三谷(7183)1077

 

「関東の建築探訪」

日時 3月頃

場所 未定

 

申込み・問合せ先 吉田(7183)7379

 

    プロジェクト実施報告

「手賀沼の自然と親しむ」

  12月8日「楚人冠記念館」

「小中学生に対する教育・啓発活動」

  10月8日「わんぱくスクール」史跡めぐり(本文参照)

「歴史文化くらぶ」

  11月5日「我孫子地名考」

「百人一首を楽しむ会」

  11月18日「第27回」

「関東の建築探訪」

  10月18日「第9回川崎民家園他」(本文参照)

  12月13日「第10回房総のむら」

 

◎当会の最近の動き(報告、予定)

新プロジェクト提案「杉山英先生顕彰碑移転事業」

 現在大光寺境内にある顕彰碑を手賀沼沿いにある血脇守之助碑の近くに移転することについて

散歩部会 

11月20日{}、第104回史跡文学散歩実施。19名。

手賀沼部会(予定)

    10月9日(日)手賀沼フォーラム「川巡り」

 12月4日(金)手賀沼クリーンデイ(当会5名参加)

研修部会 

10月2日(日)放談くらぶ「世界240国・地域を
旅して」
12月4日(日)「橋本貞秀のことを是非知って欲しい」

次回役員会予定

日時 1月8日(日)13時30分〜(17時から新年会)

場所 北近隣センター並木館

 

◎あびこ楽校協議会(当会から委員参加)

「あびこ楽校コンサート〜カッパと鳥と手賀沼と〜」

日時 10月29日(土)場所 けやきホール

 

編集後記 昨年は3月に起きた東日本大震災それに続く福島原発事故、7月の新潟・福島豪雨、9月の紀伊半島豪雨さらに10月のタイの洪水など天災に翻弄された1年でした。今年は「辰」年。十二支では唯一実在しない「龍」の字を当てている。「昇り龍」という言葉があるが、一気に天に駆け上がる勢いで、是非明るい年を期待したい。(美崎)

 

 

page topへ

 

Top pageへ