総 務 部 会

こちらでは総務関連情報を新着順にご紹介しています。

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  〜平成30年1月7日に次のとおり臨時総会が開催されました〜


 日時  平成30年1月7日(日) 15時より

 場所  我孫子北近隣センター(並木)1階多目的ホール

 議案  嘉納治五郎銅像建立の件

 

 臨時総会では審議の結果、議案「嘉納治五郎銅像建立の件」が承認されました。
 開催案内及び趣意書全文をこちらからご覧になれます → PDF形式 Word形式



 〜5月22日に平成28年度我孫子の文化を守る会総会が開催されました〜


 
総会では新役員の選任をはじめとして各議案が可決されました。
 議事資料全文はこちらからご覧になれます → PDF形式 Word形式



議長挨拶

美崎会長の事業報告

稲葉会計幹事報告

飯高会計監査報告

 

 
 当日は総会に引き続き記念文化講演会が催され、白樺文学館の稲村隆氏に
「我孫子・白樺派」という文化空間-と題してお話をいただきました。(次の記事参照)


平成28年度役員

文化講演会講師稲村氏の紹介(越岡)

倉部教育長の挨拶
 

 


講師稲村学芸員の講演

講演演題

 





第三十六回記念文化講演会(平成28年5月22日 日曜) 報告

 

演題「我孫子・白樺派」という文化空間

講師:我孫子市白樺文学館 学芸員 稲村 隆 氏 

 

講演の概要

 *我孫子・白樺派という文化空間とは?

 *明治・大正期文学史―白樺派の位置―

 *「我孫子・白樺派」の形成と発展

 

原田京平・・・画家、歌人。我孫子・白樺派を継ぐ者

静岡県出身。日本美術院院友、春陽会会友。1895(明治28)年1010日〜1936(昭和11)年116日没。享年40。京平として生まれ、以降恭平、聚文、和周と号がある。

我孫子では志賀直哉との交流をはじめとして白樺、民藝の人々と関わりを持ち、我孫子を描き、我孫子を詠んだ芸術家。

 

白樺派と民藝運動ゆかりの地、我孫子。志賀直哉、柳宗悦、武者小路実篤らは、それぞれの人生のステップとしてこの我孫子で若き日を過ごし、「我孫子・白樺派」というべき文化空間を創造した。しかし志賀らが去った後、「我孫子・白樺派」は失われたかのように思われてきたが、それを引き継いだ人物こそ、我孫子を描き、我孫子を詠んだ歌人、原田京平(恭平・聚文(しゅうぶん)・和周(わしゅう))である。

雲母(きらら)なす朝霧こめて手賀沼は眠れるままに船渡すかも」 遺歌集『雲の流れ』より

(原稿受領2016年5月27日)

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我孫子市教育委員会からの連絡について

我孫子市教育委員会から「当会会員がガイド活動で楚人冠記念館および白樺文学館を案内する際はガイドの1名に限り入館料免除にする」との連絡が入りましたので、会員各位はよろしくご承知おきください。 

(原稿受領2015年8月21日)


第三十五回文化講演会報告

 総会6今年度の文化講演会は5月24日(日)アビスタ2階小ホールにて、76名(会員28、一般48名)の参加者を得て行われた。

 講師は我孫子市教育委員会 文化・スポーツ課 辻史郎氏。

 テーマは『大光寺貝塚と三人の男たち〜坪井正五郎・柳宗悦・村川堅固〜』。

 以下はその概要である。

1 大光寺貝塚とは

我孫子市緑2丁目の今の大光寺付近にあった縄文時代の貝塚のことであり、消滅しているためその実態は謎に包まれているが、明治後期から土器や貝を採集できる遺跡として認識されており、明治を代表する人類学者 坪井正五郎、白樺派の中心人物 柳宗悦、我孫子に別荘を構えた西洋史学者 村川堅固の3人もこの貝塚に大いに関わっていたことが判明している。

@坪井正五郎(三人の1人目)

 文久三年(1863年)生まれで、後に東京帝国大学理学部人類学教室を創設、日本の人類学、考古学、民俗学の始祖とされ、日本人の起源=コロボックル説を提唱した人物でもある。

 嘉納治五郎とともに「学士会」発足時の委員を務めるほか、柳田國男、新渡戸稲造、佐佐木信綱らとの交流を重ねる他、考古に関する器物、書画を蒐集・智識交換のための「集古会」結成。明治三十年(1897年)に『日本石器時代人民遺物発見地名表』を刊行し、その中に「東葛飾郡我孫子町大字我孫子大光寺内貝塚 石斧、土器 染谷大太郎報」の記述があり「大光寺貝塚」についての報告をしている他、染谷大太郎の導きで、明治三十三年(1899年)に大光寺貝塚等の訪問時の詳しい記述(我孫子駅から人力車にて高野山付近にての貝塚土器片を眼にし、さらに大光寺貝塚にて汽水に生息が特徴のシジミを発見した様子)など、事細かに「下総国手賀沼近傍の古物遺跡」として、当時の『東京人類学会誌』に載せている。このことは、坪井が広い人脈が地元(東葛飾郡手賀村鷲野谷)居住の染谷大太郎の協力を得て、『地名表』で大光寺を知らしめたことになる。

A柳宗悦(2人目)総会5

 明治二十二年(1889年)生まれ、学習院高等科在学中に志賀直哉、武者小路実篤と知り合い、明治四十三年(1910年)雑誌『白樺』を創刊。中島兼子と大正三年(1914年)結婚後、叔父である嘉納治五郎が設けた別荘隣の「三樹荘」に移住し大正十年まで我孫子に住んだ。その間、我孫子についての記述は「我孫子から(通信第一)」、「我孫子から(通信第二)」、そして「我孫子から」があるが、「我孫子から(通信第二)」には「湖畔一帯に無数の古墳云々」、「我孫子という地名」にふれ、「神代の香り、筑波関連の神話がここ我孫子にも及んでいるのでは」、「古城址の多いこと、古墳から出る化石」がこの土地の遼遠なる昔を語っているように、我孫子の史跡・文化財について記述。特に化石は大光寺貝塚についてのくだりと推察されている。

B村川堅固(3人目)

 明治八年(1875年)生まれ。熊本第五高等中学校在学中、嘉納治五郎の薫陶を受ける。

 大正六年(1917年)に当地我孫子に別荘を設ける(旧村川別荘)。大正十年、我孫子宿本陣の離れを移築し、母屋とし、続いて昭和二年(1927年)新館を建設。別荘人として、度々我孫子を訪ねていた。嘉納治五郎、杉村楚人冠(新聞界の先覚者、関東大震災後、我孫子に移住)などと「手賀沼保勝会」を設立した。

 その村川堅固の次男である村川正二が、東京から、父の我孫子の別荘に日帰りで旅をした際の状況を詳しく作文にしているが、その中に、我孫子駅に到着、兄、姉とともに自分が、「かひづかと言ふ所に行って千年以上も前のやきものなどもひろった云々――」のくだりがある。

 実際に、「村川家の蔵には北総地域で出土する特徴を備えた縄文土器片、埴輪片などが今も残っている」と、本日の講演者・辻 史郎氏が直接、村川家の蔵を訪ねて際に見たとのお話もあった。これらは大光寺貝塚で蒐集されたもの?かもしれない。今は失われてしまったこの貝塚の学術的意義を再検討し、さらに我孫子市内の下ヶ戸などの他の貝塚などと比較研究を可能にする貴重な資料になると考えられる。

 

2 まとめ

 このように、大光寺貝塚は坪井正五郎によって「発見」され、人の知るところとなり、我孫子に関わりの深い人物による、貝塚への接し方を通じ、近代日本の学問や芸術の発展の一端となったことが伺われる。

 また、坪井、柳、村川はいずれも嘉納との接点はあるが、彼らが単独に別の交流を裏付ける資料は見つかっていないことなど、今後の課題があると、辻 史郎氏は締めくくった。

 参加者から、4、5件の活発な質問が出された。

 回答から、北総地域の中でも、流山(現江戸川)地域の貝塚と我孫子地域の貝塚は、前者(流山)がかつて「海水域」に見られる貝類の出土であり、後者(我孫子)は「汽水域」に見られる貝類(シジミに代表される)という風に貝塚は地域性も大切な要件との印象を持った。

 文化講演会は午後2時に開始、講師の先生の詳しい中にユーモアも交えながら、大変わかり易く楽しいお話に、参加者全員が引き込まれ、定刻の午後3時30分に盛況裡に幕を閉じた。

 講師の辻 史郎氏には、お忙しい中、お出でいただき、真にありがとうございました。

 (なお、この報告は、当日のお話と配布されましたレジュメをもとに作成いたしました)

(牧田宏恭記)  

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 〜5月24日に平成27年度我孫子の文化を守る会総会が開催されました〜


 
総会では新役員の選任をはじめとして各議案が可決されました。
 議事資料(PDF形式)は
こちらからご覧になれます。


総会議事次第

議長に指名された藤井会長

伊藤副会長による会計報告

選任された新役員が一堂に

 

 
 当日は総会に引き続き第35回記念文化講演会が催され
大光寺貝塚と三人の男たち〜坪井正五郎・柳宗悦・村川堅固」と題して辻史郎氏にお話をいただきました。


講師の辻史郎氏

講演会の模様

講演会の模様
 


 講演会の後「夢庵」にて懇親会が開かれました。


美崎新会長(中央左)を囲んで

懇親会にて

会場「夢庵」の前にて
 

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