平成21年(2009年)1月1日         会報 第123号
  

 我孫子の文化

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新年あけましておめでとうございます。

会長   三谷 和夫

 創立三十周年へ回顧と展望
 
昭和五十五年三月の市議会が、すでに(株)サトウハウスの分譲開発計画に認可もすんでいた志賀直哉邸跡をギリギリで買収保存を決定しました。これには一万名をこえる署名集めがきいたことも事実です。
そして七月二十日「我孫子の文化を守る会」設立となったのです。兵藤純二初代会長が先頭に立っての粘り強い活動の成果でした。
 先ず志賀邸跡地の清掃から始め、入り口に看板を立て、白樺派の学習を始めました。それは史跡・文学散歩へと発展し、今日まで連綿と続いています。市内外、手賀沼周辺はもちろん、茨城・埼玉県のほか東京へも何回も出かけています。また毎年春には各界の名士の講演会をずっと開催、郷土美術展を開き今日の美術展盛況の糸口をつくりました。そのほか「絵はがき我孫子」の刊行、「民話・伝統工芸の集い」、さらにラブホテルの建設阻止の活動、「史跡案内板設置」を議会に陳情しました。これらは二十周年記念誌にくわしく書かれています。
ところで平成九年に、創立以来十七年間会長を務められた兵藤会長が病気のため急逝。勤務のあとでワープロ編集に夜を徹したとも聞いており、会のため骨身を削っての精進には頭が下がります。このときが本会存立の危機でしたが、全会員結束して乗り越えることができたのでした。
兵藤会長が手がけた「手賀沼百人一首」は大好評でNHKでも放映され、その後「句集手賀沼」、「手賀沼短歌」の刊行へと発展しました。その短歌作品は、文学の広場にある文学掲示板に、他団体ともども展示されて続いています。
常磐線、成田線の開通百年を経て、我孫子駅開設のため奔走し私財を無償提供して実現に献身し成功を収めた飯泉喜雄氏(我孫子町長、県議会議員など歴任)の功労に対し顕彰碑を建設すべく、他団体と協力して実現できたことは大きい喜びです。
また地道ながら隔月の研修会は、いま「放談くらぶ」と銘打って楽しい集いが続いています。
志賀邸に続き、会が要望してきた嘉納治五郎別荘、岡田武松邸はそれぞれ有効利用が実現しました。我孫子宿名主邸、柳宗悦邸、松岡(柳田)邸の保存も今後の課題です。
さて明年(二〇一〇年)は創立三十周年です。プロジェクトによる会員活動も始まり、私も名実ともに会長を辞し、新しい発展に期待しております。
我孫子の文化を守る会、万歳!
 
新年会のご案内
「我孫子の文化を守る会」では左記のとおり新年会を開催いたします。一般会員の方も自由に参加できます。お誘いあわせの上、是非ご参加ください。
日時 1月11日(日) 5時〜
場所 「夢庵」手賀沼店
会費  2500円
問い合わせ&参加申し込み 村上(七一八四)一八〇四
相島の「倉サロン」を聴講して     
布佐平和台  菅野 哲哉 
                              
講座名:「江戸時代の手賀沼干拓の歴史」 
10月12日(日)午後、歴史家の中村 勝氏の興味溢れる講演に約20名の聴衆が聞き入っていました。
講演要旨は下記の通りです。
1.江戸商人の手賀沼干拓事業進出
17世紀中期に入ると江戸商人は次第に裕福になる反面、多額の借金返済に難儀し、貧窮化する大名が増加し始めた。大名貸しを危険視して商売をあきらめ、家財を処分して手賀沼方面への進出を目指す豪商が増えてきた。
手賀沼の新田開発は利根川の洪水続出のため、挫折し、撤退するものがでた反面、次々と新たな商人が新田開発にやってきた。開発事業は困難の連続だった。
2.井上家の事業転換 
 井上家の祖先は17世紀中ごろ、近江より江戸に出て御用商人として次第に地歩を築いていった。
享保年間、4代目井上佐治兵衛に至り、幕府の新田開発奨励策に呼応して、隆盛の商売を閉じて布佐に移住し手賀沼干拓に乗り出した。佐治兵衛らは手賀沼を東西に2分する形の「千間堤」の構築に携わった。
享保十九年(1734)の利根川大洪水で千間堤は2箇所で決壊し用を為さなくなったが、その後修復されていない。
手賀沼干拓による広大な新田開発が完成するのは昭和期に入ってからである。
3.江戸輸送ルートの短縮化 
 鮮魚類の江戸への輸送は利根川など水運に頼っていたが、日数の短縮化が大きな課題だった。その後、利根川から布佐に上陸し、松戸経由で再び水路を江戸に至るルートが盛んに利用された。ついで開発されたのが利根川から木下に上陸し鎌ヶ谷経由、行徳までの陸路を経て小名木川経由で江戸に入るほぼ一直線の最短ルートであった。陸路は鮮魚街道(なまみち)と呼ばれた。
4.手賀沼の人気
江戸町人にとって手賀沼は大変魅力があった。
手賀沼方面への1泊2日の旅は江戸町人に人気を博し、木下からの「木下茶舟」と呼ばれる観光舟が大いに利用された。最盛期には、年29,000人が観光旅行に繰り出したと記録されている。観光スポットとしての手賀沼の盛況振りがうかがわれる。     
そのほか、日本人と西欧人の歴史の捕らえ方の違い、古文書の読み方、などについても興味あるお話がありました。                         (了)

水辺の桜」(その4
       若松  村上 智雅子
   紅葉と冬芽
 
十数年前、小学五年生だった息子が、秋の写生大会で何がしか賞をいただいたことがあった。その絵の中に、不思議な木が描かれていた。緑と黄と赤の三色の葉をまばらにつけた木。思わず、「これ何の木」と聞いた。「桜だったよ」という息子に、「えっ そんなー」と疑いの目を向けていた。
翌年の秋、家の前を掃いていて、まだらな落ち葉を見つけた。見上げると、緑黄色と黄褐色と赤紅色に色づいた桜の葉。子供の観察眼の正しさを知ることになる。それ以来、桜の紅葉もなかなかのものと知り、おちこちの木が紅葉するほんの少し前、さりげなく色づく秋の桜を楽しみにしている。
そういえば、高村光太郎に「落ち葉を浴びて立つ」という詩があった。そこでは、桜葉を「金の葉や瑪瑙(めのう)の葉」と表現していた。唯、これは三千坪の桜林を逍遥して書いたもので趣きは異なるが、
 
どこかで伽羅のくゆってゐるような日本の秋の
   なまめかしくも清浄な一天晴れたお日和さまよ。
   鳥かげさへ縦横にあたたかい十一月の消息を
ちらつかせ・・・
 
とあった。
その一節にうながされるように、十一月末の小春日和の日、遊歩道を散策した。残念ながら目当ての桜はすでに葉を落とし、冬木立になっていた。「文学の広場」の道を挟んで右端のハゼの木は、まだ紅葉の名残りを止めていた。この木は、このあたりで一番はじめに色づき、ゆっくりと橙色から燃えるような赤紅色に紅葉する。左端のイチョウは、大方の葉を落としていたが、ふり積もる黄色の絨緞は黄の光を照り返して、幼き日の思い出を燻らせ、ふんだんな輝きに酔わせてくれた。唯、モミジだけはまさに見頃。日頃目立たない木が突然鮮やかに姿を現わし、歩みゆく足を何度か止まらせた。
我孫子高校近くの第四公園。ここは大島ザクラが二本大きく茂っていたのに、見えなくなった所。木があった辺りをよく見ると、草の中から一メートルばかりの若木が生えている。明らかに大島ザクラで未生(みしょう)のものと思える。どんな形であれ、残ったことは心強い。公園の右側には五本のイロハモミジと左側には二本のオオモミジが鮮やかであった。それぞれのモミジは紅葉の時期がずれていて色合いが少しずつ異なり、まわりの松や常緑樹のくすんだ緑の背景から鮮やかに何層かの色調を浮き上らせていた。モミジすなわち楓の紅葉の美しさは、そのグラデーションの妙にある。
わが家の前のイロハモミジもその典型的な一本。これはポンプ場が出来た時、そこにあったモミジを移植されたものだが、知らぬ間に私の大切な木となっている。もとからあった桜と一緒に移された梅の木の間で、年毎に葉を茂らせて桜の枝と重なってきている。この天蓋のように広がる、黄色、橙色、蘇芳(すおう)色、朽葉色へと日々変わっていくグラデーション。毎年、この見上げるアングルでカメラを向けてしまう。
しかし今年はその同じカメラが捉えた隣の桜の梢に目が釘付けになった。網の目のように張りめぐらされた枝のシルエット。じっと見上げていると逆様にその青の中に落ち込んでしまいそうな抜けるように澄んだ冬空。その空をむんずと掴まえて放そうとしない力強い桜の枝はゴツゴツと荒々しく野太く突き出していた。その先端にも脇にも小さな冬芽が無数に付いている。鈍(にび)色の硬い殻の中には、やわらかな花びら、おしべ、めしべ、葉のもととなる何層かの薄緑と薄桜色のいのちの芽が宿っているのであろう。
こんな逞しさや荒々しさやしなやかさが、桜にあったとは・・・。あらためて、まばらに連なる桜木を見つめた。おしなべて遊歩道の桜は沼からの風を受け、家側に幹と枝を傾けている。いくつかの枝が折れ曲がりながらも、永い年月を重ね風雪にも耐えてきた桜は、冬日を浴びて伸びやかに立っていた。     (つづく)
第91回史跡文学散歩(報告)
高野山、寿周辺の史跡を訪ねる
    小林一茶の足跡を中心に  
柏市 布施新町 田嵜 隆三
 
 記録的な猛暑が一服し小雨が頬に心地よい彼岸の九月二十一日(日)の午前、約四十名で越岡副会長のご案内のもとに行われた。
各史跡は我孫子市内の最も身近な、平素はその前をスイーと通り過ぎている所にあった。
行程五キロ、縄文遺跡から平成のご造営に亘るもので、後の様に多くの史跡を歴訪したがレポーターの趣味的表現によれば、ふるさと讃歌と一茶の庶民歌に心酔する、痛快な史跡探訪であった。最大の収穫は、我孫子の讃歌「名月や 江戸のやつらが 何知って」の句碑が極めて身近な所に在るのを知った事だ。
 当日のコースは、天王台駅→@旧料亭みどりの跡
(現日立の研修所)→A我孫子中学校→B最勝院→C水神山古墳→D香取神社→E山科鳥類研究所→F水の館→G一茶句碑(市役所玄関西)→H伽羅の木(市役所玄関正面)→ I旧村川別荘→J子の神大黒天 を訪ねたが前半の@〜CEは女性的な艶っぽさを感じる史跡で、後半のDE〜は強面派的であった。
いずれも、故郷の歴史此処に始まる級の重要で意義深いものだったが、今回私が最も感銘を覚えた二つの史跡、C水神山古墳とG一茶句碑について私の想いを中心に報告したい。
C水神山古墳は、地勢が九州の私の生地近くにある宮内庁の女狭穂塚古墳に似ている。南は水辺を北は往時、豊かな森だったであろう台地等々。四世紀の大型前方後円墳で埴輪や武具が無く刃子や針束が出土したとは女王墳であろう。女王と言えば卑弥呼を思出す。 
九州は今、十一月の吉永小百合さんが主演する映画「卑弥呼」の封切を待ちかねている。
水神山の女王が小百合さん張りの美人であられた事を想像しながら次の史跡に向かった。
G一茶に限らず他の文人でも、市役所の玄関に作品碑を置く都市は全国でも無いのでは?しかも単に吟行に来たホームレスの作品を。それにしても、痛快・豪快な俳句だと思う。ホームレスが、自然や環境に乏しいお江戸の分限者を憐れむところは同意・同感である。この句、他人(明治の文士=穂積永機)の作かも知れぬとのこと。改竄も善いではないか、最高のふるさと讃歌の合作になったのだから。
「名月や 江戸の奴らが 何知って」と。
 ともかく、各史跡は 再三訪問はしているが、何遍来ても「ゆかりや経緯」を知らなければ「眼前の史跡もただの木石」の教えを呻る程に体感させられることばかりであった。


今回の企画と実施に感謝を申上げたい。そして定期的な再演をも、お願いしたい。紙面に余裕があれば、全部転記して各々に感想を述べたい高名な句歌の紹介もあったが割愛し一茶先生の真似による私の思いの改竄一句は
「この名郷 都の奴らが 何知って」
 
第92回史跡文学散歩(報告)
流山に一茶、新撰組ゆかりの地を訪ねる
                  つくし野 山中 康子
 
11月16日、生憎の雨ではありましたが、流山の史跡文学散歩に参加させて頂きました。
流山電鉄平和台駅から散策は始まりました。現在はイトーヨーカ堂となっている場所が、以前は陸軍の軍馬の飼料貯蔵場所だったとのこと。雨の日曜日の朝とあって、人の姿も疎らなスーパーマーケットの駐車場に往時を重ねることは難しくはありましたが、馬が戦争に駆り出されない今の世を幸せに感じました。
そこから一茶双樹記念館へ。天晴味醂の五代目当主秋元三佐衛門は俳人小林一茶のパトロンでもあり、自らも双樹という俳号を持ち、一茶と連句を行っていたとのこと。双樹の住んでいた家屋は子孫の方が平成3年まで住んでいたとのことですが、しっかりとした造りの家屋と手入れの行き届いた庭が、そぼ降る雨と相俟って、なかなかの風情でした。折しも近くの赤城神社からは雅楽まで聞こえ、平成の世の中にいることを忘れるような一時でした。ガイドの財前さんの双樹と一茶の解説を聞いた後、秋元家の菩提寺の光明院と赤城神社へ。赤城神社には見たこともない程の大注連縄に驚かされました。毎年10月中旬に近くの方達が力を合わせて作り上げるとのこと。我孫子とはまた違う地域の結束の固さを感じさせました。赤城神社から聞こえていた雅楽の正体はカセットテープと判明し少しがっかりしましたが、神主さんにお祓いまでして頂いて今後の御利益に期待。
その後向った近藤勇の陣屋跡は時代に翻弄された新撰組組長が最後に官軍に包囲された場所。激しい時代の流れの中で命を落としていった人の心の中は私には想像もつきません。その近くの閻魔堂には閻魔様に睨まれるように義賊金子市之丞とその恋人三千歳の墓が安置されていました。義賊であったかどうかは実際には定かではありませんが今の暗い世の中にもスーパーヒーローが現われてくれることを期待してしまいます。
その後、江戸川土手に上り見霽かす平野を望み、往時の水運の隆盛を想像したのでした。最後の流山市立博物館に着く頃はお腹も減り、やたらと食べ物屋の看板が目につく頃に解散となりました。
我孫子と流山の文化の深さの違いに目を向けさせて頂く貴重な散策となりました。
ガイドの財前さんの説明も楽しく、生徒に返った一日となりました。有難うございました。
 
 
 わたしの識っている柳田国男
  越岡 禮子
郷土史を学ぶようになって約三十年、その間に先輩達から教えていただいたこと、公民館講座を務めた折に多少勉強したことなどをもとに柳田国男先生についてお話したいと思っています。
今、昭和三十年代の暮らしや想いがブームとなっているようですが正にその頃が私の青春時代であり、どこの家庭でも家族の絆が現在より強かったように思います。まだ古来からの日本の良さを随所にみることができました。
柳田国男は丁度その三十年代にすでに現在の日本人の姿を予言していました。
物質的繁栄の只中にあっても国民の幸福ということからすれば甚だ心もとないということです。昭和三十七年、八十七歳で柳田は亡くなりましたがその後の日本社会は高度経済成長を成しましたが、それと引きかえに大切なものを失ったように思います。その大切なものが何であるかを知るために郷土の偉人、柳田国男についてもっと深く学ぶ機会が欲しいと思います。
二月の「放談くらぶ」では民俗学と民族学の相違、柳田の布川、布佐時代、柳田の兄弟達、田山花袋と柳田の親交などを語りたいと思います。
◎新プロジェクト続々スタート
 9月に始まったプロジェクトのうち「手賀沼の自然と親しむ会」「小中学校生に対する教育・啓発活動」「三谷会長を囲む会」「百人一首を楽しむ会」「千葉の建築めぐり」「異文化を学ぶ会」「布佐地区の歴史・文化研究」「チーム井上住宅」などが順調に立ち上がって活動を始めました。(順不同)
 
 
 
 
手賀沼アララギ短歌会 平成二十一年展示作品
(文学の広場 書は綱川タネ子役員による)
                                   
蓮の葉をふみくぼめつつ鳰の子は
泣かむばかりにあとを追ひゆく
                    つくし野 津村 阿里
 水澄みて浅き瀬に立つ白鳥の
    あし透けて見ゆ立秋の朝
                     高野山 寺田 賢一
 先立ちし一羽が統べる雁の群れ
    方位確かに利根に真向う
                      若松 中野 誠治
 次ぎつぎと刈入れ進む大広田
    籾摺屋(をく)の作動音響く
                   湖北台 馬場千鶴子
 新しき年の風吹く手賀沼に
    友らとともにヨット走らす
                  寿  藤井 吉彌
 
 せせらぎを渡り素敵なレストラン
    ウエイトレスはバンビの予感
                   松戸市 古川 茂枝
 
          
湖畔六句 「句集 手賀沼」より
                 
厄日来る漁協の寝具荒積みに      山口 彩子
                       
ひたすらに白狐となりぬ里神楽     吉野 哲夫
 
芹摘んで我孫子の雪に降られけり    石塚 友二
 
ひとつ家へ人を吹き込む枯野かな    三級帝魚文
 
水尾ひいて離るる一つ浮寝鳥       高野 素十
 
とほり雨みみづく恋になく夜なり   中  勘助
 

第93回史跡文学散歩
一茶を偲んで布施街道を歩く
 
「一茶ゆかりの地を訪ねる」シリーズの最終回は柏市
布施をたずねます。
一茶は信濃の人です。青年期下総の各地を歩いていますが、現在の守谷市にある西林寺の鶴老和尚は同郷の人で交誼が深かったのです。小さな寺の住職でしたので大川立砂や秋元双樹のようなパトロン的な存在でなく、心安い友人として一茶も度々西林寺を訪問していました。布施弁天下の七里の渡しを利用すれば西林寺はすぐ対岸にあります。今も布施街道の家並みは趣があり見所も多くあります。コブシの花やレンギョ、菜の花、桃と花の美しい季節です。
お友達も誘って参加して下さい。
日時 3月29日(日)JR「我孫子駅」北口
     9時集合(小雨決行) 12時30分現地解散
参加費  会員 無料、 非会員 500円
コース 善照寺|南龍寺|曙山(一茶の句碑)|
布施弁天|農業公園等。
 申し込み 〇四(七一八四)二〇四七 越岡まで
 
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